結局俺の初めては全部この人に奪われた。2
アイドル候補生として充実した毎日を送る水方ユキ。しかしそんな彼にも悩みがあった。事務所社長の一色紅が、やたら自分と距離を詰めてくるのである。
何とか適度な距離感を保とうとするものの、ひょんな事から紅の自宅に招かれ空気に飲まれてしまい……。
再生されたAVは、旦那さんとご無沙汰の奥様を可愛がってあげるなんて企画モノだった。企画内容的にも女優さんの年齢層的にも、高校入学前の男子に見せるにはいささかレベルが高いのではと思わなくもない。
ただそれでもこちとらエロい事ばかり考えているような多感なお年頃。ぽってりとした唇から零れ落ちる悩ましい吐息や、肉付きのいい胸やお尻に男の指が食い込む様子が気分を盛り上げて、結局は勝手にちんぽが反応してしまうのだ。
最初の方で紅さんが、「気分盛り上げるために暗くしよーぜー」なんて言って照明を絞ったせいで、室内は間接照明のみで薄暗い。大きな壁かけテレビが生々しいセックスの光景を映し出し、家具を青白く照らしている。
その上腰に回された手のひらが、ゆっくりと意味ありげに俺の胴体を撫でて、擽って、手を繋いで、指の股をなぞってきて……。エッチな映像を見ながらそんな事をされていると、いつも以上に意識して、身体が過敏に反応してしまう。
何か、すごく変な気分だ。AVを見ているからという理由だけじゃない。こんな風に、薄暗い部屋でぴったりと身を寄せ合って、紅さんの煙草の匂いと香水の匂いに包まれながら、まるで恋人にするみたいな動作で体を触られている。その事実にクラクラする。体が熱を持っている。
「っ……あっ、あのっ! ちょっと、手、くすぐったいかもです……」
これ以上続けられると変な声が出てしまいそうで、俺は意を決して、悪戯する手を押しとどめた。するとすぐに体温が離れていき、無害をアピールするような形で、紅さんが両掌を向けてくる。
「ごめんごめ~ん♡ 俺さぁ、可愛いなぁ~って思うとつい手癖で撫で回しちゃうんだよね~。こそばかった~?」
「……か、可愛いって……」
「実際ユキは可愛いぜ? 顔も可愛いし声も可愛いし性格も可愛いし、それに……この程度でちんこおっ勃てちゃうのも可愛い~♡」
「ッ!!」
すっかりテントを張っていたズボンの前を指摘され、俺は咄嗟に両手で股の間を覆い隠した。紅さんがくすりと目を細める。
「なぁユキってさ、マジで童貞なの?」
「……」
「ちげーってバカにしたくて聞いてんじゃなくて~、ほらユキって綺麗な顔してるし優しいし女の子にモテそうじゃん? なのに童貞なのかな~って、純粋に疑問に思って聞いてるだけ~」
これが同世代同士の会話であれば、少しの見栄も張ったのかもしれない。だけどこの状況で、大人の紅さん相手に自分を大きく見せる意味もない気がしてきて、俺はしばしの逡巡の後に首を縦に振った。すごく控えめにだけど。
そっか~。って、事前に断った通り、特にバカにした風もなく、いつも通りの口調で紅さんが言う。真っ赤になっている耳たぶに、するりと指が滑ってくる。
「いいじゃんいいじゃん。それだけ女の子のコト大事に出来てるって事だろ~? 男としてカッケェと思うぜ。それでこそユキちゃんって感じする~」
「ん……♡」
思った以上にまともな意見が返ってきてホッとすると同時に、耳の形を確かめられて、首筋を細かな疼きが下っていく。止めて欲しいような、続けて欲しいような、相反する気持ちの板挟みで何も言えなくなってしまう。
「……これも擽ったい?」
「……っ……分かん、ない……♡」
「じゃあもうちょっと触っていい?」
「ぅ……」
肯定も否定も出来ずにいれば、当然ながら紅さんの手が止まるはずもなく。耳から首筋、そして顎下に戻り、頬をくすぐり、それから頭を撫でる。一つ一つの手つきが何だか凄くいやらしくて、一方で可愛がられているみたいでちょっと嬉しくて、体が熱くなる。その間も、キスをした事があるかとか、手をつないだ事があるかとか、付き合った事があるかとか、恋愛遍歴を事細かに聞かれ、俺は馬鹿正直にそれに答えた。
女の子とキスはおろか付き合った事もなくて、学校行事等で手を握る事はあれ、男女として手を繋いだ事はない。普段の紅さんならからかってきそうな返答だったけど、今の紅さんはただ、そっかそっか。ユキは可愛いな。って、俺の事を全肯定してくれて、その度に肩をトントン。頭をヨシヨシ。たまにちょっと意味ありげな手つきで耳や首筋をスリスリしてくる。温かい手のひらに甘やかされて、もう誤魔化しようもなく性感を覚えてきて、俺は目元をとろんと緩ませて徐々に紅さんにしな垂れていった。AVを眺めながら、エッチな気分になった状態で、他人に優しく触って貰えるのがこんなに気持ちいいなんて知らなかった。
「じゃあ~……女の子とキスする時のための練習、してみる?」
そんな風にこの状況を受け入れ始めた頃、紅さんが俺の顎をすくいつつとんでもない提案をしてきた。
「え? れ、れん、しゅう……?」
「そ、練習。いざ女の子とファーストキスする時に、スマートに出来なきゃ男としてカッコ悪いだろ~? だから俺で練習しとくの♡」
練習だろうが何だろうが、キスしたらそれがファーストキスになるのでは……?
そうやって一瞬理性が顔を覗かせたけど、心も体も悶々とした今の状態で、目の前でトントンと突っつかれる形のいい唇がすぐさま俺を本能側に傾けた。
目の前に居るのはあの一色紅だし、っていうかそれ以前に男だ。キスするなんてあり得ない。でも、相手が誰かなんてそれ以上に、俺は今人肌に触れたいし、触れられたくて堪らなくなっていた。こんな気分の時に、もしキスなんてしちゃったら、どんなに気持ちいいんだろう。
「……ほ……ほんとに、練習、だけ……?」
「うんうん。練習だけ。あくまで練習だからノーカンだぜ♡」
あくまで、練習。練習だから本番じゃない。冷静に考えれば全く理屈が通っていないのは分かる。だけどこの時の俺は何よりもスケベ心が勝っていて、その悪魔の囁きにそそのかされずにはいられなかった。
「……じゃあ……やる……」
恥ずかしさから紅さんの肩口に顔を押し付けて、小さく頷く。少しの間があった後「うん、じゃあやろっか」って、子供をあやすような口調でそう言った紅さんに、体の向きを変えられた。
ソファの上で向かい合って、前髪を優しくすかれ、オデコを撫でられる。目の前で微笑む紅さんの表情はいつもより優しくて格好良く見えて、今からこれとキスするんだと思うと恥ずかしすぎて目が泳いだ。だけど視線を斜め下に逃がすと、「だめ、ちゃんと見て」って、すぐに顎を持ち上げられる。ドラマでしか見た事がないような仕草に心臓が飛び跳ねる。
「ユキは~、折角いい顔持って生まれて来てんだから、相手を優しく見つめてあげられるようにならなきゃダメだぜ~? それだけで女の子は喜ぶんだから」
ゆっくりと紅さんの顔が近づいてきて、額がそっと触れ合う。吸い込まれそうな瞳。きれいで、それでいて力強い色が、すぐそこまで迫っている。
「こうやって、可愛いなぁ~って思いながら、じーっと見つめてイチャイチャしてあげんの♡」
「っ♡」
鼻先が擦れた瞬間に、堪らず呼吸を喘がせてしまい、紅さんが小さく笑った音が聞こえた。
「女の子の心と体が温かくなって、ちゃあんとキスしたくなるようにお膳立てしてあげて~……」
側頭部を手のひらでつつまれて、温かい指先が耳たぶの凹凸をなぞってくる。瞳の動きが、睫毛の瞬きが、肌を撫でる指先の熱さが、一々俺の体の芯をじくじくと蝕んでくる。紅さんの言葉通り、鼓動が高鳴って、体もじんわりと汗ばむくらいに熱を持っているのが分かる。そんな俺の状態を見透かしたように、すぐそこで細められるディープブルー。それがあまりに色っぽくて、背骨を電気が走り抜けた。
「ゆーきちゃん♡」
ぞくり。
「可愛い」
ぞくり。
「今日も綺麗だな」
ぞくり。
「大好きだぜ」
ぞくり。
一つ言葉を落とされるごとに、全身に甘いざわめきが広がっていく。まるで女の子を相手にしているみたいな口説き文句で、男の俺でも涙ぐむ程ドキドキしちゃってる。顔といい声といい仕草といいこのときめかせ力といい、本気を出した紅さんはやっぱり現実に存在しているとは思えない。完璧な二次元だ。
もう無理。限界。心臓張り裂けて死ぬ。耐え切れなくなってぎゅっと目を瞑ったけど、今度は紅さんに指摘される事はなかった。
ほん目の前に気配を感じる。呼吸を感じる。視線を感じる。俺の事をじっと見てるのが分かる。はやくとどめを刺して欲しい。やるなら早くやって欲しい。こんなのあまりに恥ずかしすぎる。
「ほんっとかわいーよなぁお前……♡」
「ッ!!」
つんと、上唇に、一瞬柔らかい感覚が当たった。大袈裟に体が強張る。
手のひらが、俺の目元を覆うように被さってくる。自分から目を瞑ったくせに、いざ視界を奪われると、不安と羞恥心でたまらなくなった。
「ほら、もうキスしちまうぜ?」
「ぁ……っ、の……! これっ……むしろ、まだ、キス、してないんですか……?」
「ん~? ユキはどう思う~?」
「ぅ、ぁ……♡」
口の動きにあわせて上唇同士が断続的に擦れ合い、くすぐったくてじれったい。下唇も、ぎりぎり触れ合っていないだけで、薄皮一枚挟んだような位置にあるのが手に取るように分かる。
いつもより強く感じる煙草の匂いが生々しい。唇の割れ目から、紅さんの吐息が滑り込んでくる。
「はい、よーく感じて……?」
低くてしっとりした声が、鼓膜どころか口内の粘膜すら擽った。体にぞくぞくと細かな電流が走り、指先にまで広がっていく。
「人生で初めてキスする直前の感覚。これが終わったらもう一生味わえない感覚。ドキドキする? 気持ちいい? ユキのココは今どんな風になってますか~……?」
「あ♡ ぁ……っ♡」
胸に手のひらが滑ってきて、真ん中をとんとんとつつかれる。そんなのもうよく分かんない。ただ心臓がバクバク脈打って、息苦しくて、紅さんの事しか考えられない。ちょっと唇同士を押し付け合って終わりだと思ってたのに。すぐ終わりだと思ってたのに。こんなの酷い。こんなに恥ずかしい思いをさせて、こんなに焦らすなんて酷い。早くして欲しい。早く欲しい。早く、紅さんと、キスしたい……♡
「はい、ダーメ。焦らねぇ、焦らねぇの」
いっそ思い切って自分から唇を押し付けようとした瞬間、全てお見通しだとばかりに体温が遠ざかっていった。だけどまたすぐにオデコがこつんと触れ合って、唇も触れるか触れないかの位置まで戻ってくる。
「なぁユキ、目、瞑ったままでいいの?」
ふうふうと荒い自分の呼吸が格好悪くて、でもそれをどうにか出来る余裕もなくて、俺はバカみたいに頷く事しか出来なかった。
「はじめてのチューなのに、いいの~……?」
空気をたっぷり孕んだ声が、張り裂けそうになっている心臓の裏側を、さらに引っ掻き回してくる。こんなのもうどうしたらいいか分からない。ときめいてるとかそういう次元の問題じゃない。俺、ほんとにこのまま死んじゃう……。
「だって……だってぇ……♡ 紅さん、かっこよすぎるからぁ……! 目、開けて、チューなんてしたら、しんじゃうぅ……!」
紅さんの腕に縋り付きながら、どきどきと高鳴る鼓動のままに気持ちを口にした。すると、目の前から嬉しそうに笑う気配が返ってきた。
「そっか♡」
優しく両頬を包み込まれ、顔を少しだけ上に向けさせられる。さらりと前髪が落ちてきて、煙草でも香水でもない、シャンプーのいい匂いがする事に気づく。それが通り過ぎて、額が当たる。鼻が当たる。睫毛が触れる。紅さんの匂いでいっぱいになる。そして
「ゆーき。……愛してるぜ♡」
ステージ上でのファンサとは全く違う、囁くような声と共に、いよいよ呼吸が飲み込まれた。
初めてのキスは特別な味がするわけでもなく、ただ寸前まで感じていた煙草の匂いの延長線上だった。だけどそれが逆に、今他の誰でもない紅さんとキスをしているのだとまざまざと痛感させられた。紅さんの唇は薄く見えるのに、触れ合うと物凄くぷにぷにして柔らかくて、表面が少しだけかさついてて、でも奥に湿った感触もある。その柔らかさと、温かさと、匂いと質感。初めて感じるものばかりで、興奮と同時に謎の感動すら覚えた。人の唇って、紅さんの唇ってこうなんだって。
紅さんは余計な事はせず、しばし味わうようにじーっと押し付け合って、そして一旦離れていった。
「やっとユキとチューできた……♡」
僅かな隙間で、くふっと笑いながら紅さんが囁いた。その意味を深く考える間もないまま、もう一度キスが落とされる。今度は角度を変えながら、畳みかけるように何度も。
ちゅ♡ くちゅっ♡ ちゅっ♡ ちゅっぱ♡ 触れては離れる度に大袈裟なリップ音が響く。こんなヘンな音立てる必要無いのにってくらい、エッチでクラクラする音。その上鼻や喉から抜ける音はまさにAVの中で気持ち良さそうにキスしている呼吸音そのもので、紅さんがこんな音を出しているんだと思うと、タブーを知ってしまった気がして逃げ出したくなった。
(どうしよう♡ どうしよう♡♡ すっごいエッチな音してる♡ お腹の奥がウズウズってするぅ……!!♡♡)
耳を犯す水音が脳味噌をざわざわと高揚させ、そして下腹部をズクンズクンと脈打たせる。俺はどうしたらいいかなんて分かるはずもなく、ただ紅さんにされるがまま。ぎゅっと服を握りしめ、不規則なキスの合間に呼吸を喘がせる事しか出来ない。
(こんなの練習じゃない♡ こんなのホントのキスされちゃってる♡♡ 初めてなのに……俺、初めてのキス、紅さんと……♡♡)
最初から分かり切ってた。練習だろうと練習じゃなかろうとファーストキスには違いないって。だけどこんなめちゃくちゃな提案を呑んだ時点で、俺にもその気があったという事だ。たぶんきっと俺も心のどこかで、紅さんに下心を抱いていた。その証拠に、俺は嫌じゃないどころか悦びと充足感を覚えている。
俺が喜んでいるのがバレてしまったのか、紅さんが手のひらを絡め取って、指の股同士を組み合わせてきた。いわゆる恋人繋ぎ。そのままきゅっと握りしめられたから、俺もぎこちなく握り返した。手のひらの温かさと、皮膚越しの脈拍を感じて、じんわりと心臓にときめきが広がっていく。ただ唇を触れ合わせているだけなのに、舌すら使っていないのに、何でこんなに気持ちいいんだろう。
「くれない、さぁん……ん♡ きもちぃ……♡」
合間に素直な気持ちを伝えて、紅さんがちょっと嬉しそうに息を漏らすと俺まで嬉しくて、そのままさらに深くキスに没頭していった。
すごく長い時間だったような気もするし、すぐに終わってしまったようにも思う。だけど終わる頃には、水音に耳が甘く痺れて、唇が熱を持って腫れぼったくなったような気すらした。女の子とキスする練習、という口実で始まった事のはずなのに、俺は完全に女の子扱いされ、優しくて気持ちいいキスを教えられてしまった。
ちゅっ。最後にもう一度音を響かせて、唇が持ち上げられる。
「……はい、ユキちゃんオメデト~♡ 上手にキスの練習出来ました……♡」
改めて見上げた紅さんの瞳はうるりと光を返し、頬がほんのりと高揚していた。
もしかして俺で興奮してくれたんだろうか。紅さんも気持ちよくなってくれているんだろうか。その表情を見て、今まで紅さんに相手に感じた事の無い、いや感じるべきではなかった劣情が、自分の中に芽生えたのが分かった。