小説

ただいま。おかえり。大好き。また来年。

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守屋武蔵×朔宮月影

2019年7月pixiv投稿。昨年の小説で、「来年は祇園祭に行こう」と話していた月影さんと武蔵君。一年越しで約束を果たします。読んだ方も二人と一緒になって、お祭りの楽しさや、夏の夜特有の郷愁、幸せを味わえる作品になっていたら嬉しいです。

 祇園祭のハイライトが迫った京都駅構内は、祭囃子を模した音楽が流れていた。
 普通列車も特急列車も乗降客で忙しなく、駅構内の通路もめまぐるしく人が行き来する。月影と武蔵も、そのうちの一人だった。
「わぁ、いつも賑やかですけど、今日は一層ですね」
「ほんとにな。月影さん、こっち」
 ついつい周りの景色に気を取られてしまう月影の袖口を、武蔵がついと引っ張った。
 京都駅から烏丸線に乗り、烏丸御池で東西線に乗り換える。武蔵の実家の最寄り駅で降車すれば、昼間は静かな裏路地が二人を出迎えた。しかし、そこから石畳の道へ足を伸ばすと途端に人通りが多くなる。訪れる度に観光客で賑わってはいるのだが、今日はやはり別格だった。宿周辺は祭りの会場となる区画からは少し離れており、尚且つ本日は前祭のうちの宵々山。それでも沢山の人間を集めてしまう辺りに、日本最大級の祭りの求心力を思い知らされる。
「八坂神社にお参りも行きたいけど、まずウチ寄って荷物預けちゃいましょっか」
「そうですね」
 浴衣諸々も家から持ちだしているために、普段の旅行より重たいスーツケースをがらがらと引きながら旅館への道を歩く。梅雨の中休みに照り付ける太陽へと、暑い暑いと愚痴をこぼしているうちに、遠目に門構えが見えて来た。
 玄関先では、女がせっせと打ち水を行っていた。若女将のサキである。二人の存在に気付いた瞬間、分かりやすくぱっと表情を華やがせるサキ。柄杓を置き、元気に両掌を振って見せてから、玄関へと半身を隠した。
「女将さーん! 女将さーーーんっ!! 武蔵君と月影さん、帰ってきはりましたよぉーっ!!」
 こちらまで聞こえて来る程の大きな声で明を呼ぶものだから、二人は思わず顔を見合わせて、噴き出してしまったのだった。
 
 

ただいま。おかえり。大好き。また来年。
 

 
 通された部屋は、十畳の本間の他に、次の間と広縁があり、大浴場に行かずとも汗を流せるシャワールームも完備されている。二人で宿泊するには十分すぎる広さと設備だった。
「ほんまはもっとエエお部屋ご用意したかったんですけど、この時期いらっしゃるお得意様のご予約がいくつか重なってしもて……」
「そんなとんでもない! むしろ、繁忙期にお部屋を取って頂けただけで有り難いです」
 それでも申し訳なさそうに語る明は、一体どんな部屋を用意したかったのだろうか。想像も出来ない月影は、ただただ恐縮するしかない。しかし宿の事情に明るい武蔵はといえば、少々不満気な様子で室内を見回していた。
「なー、俺、露天風呂付の部屋が良かったんやけどー」
「ぜーたく言うな」
「月影さんと俺の扱いの差よな……」
 月影とは対照的に堂々と文句を垂れる息子を明が一蹴した所で、こんこんとノックの音が。元より入り口は開いていた中、すぐに顔を覗かせたのは千尋である。
「お久しぶりです。ご挨拶遅れてすみませんね。ちょっと板場がバタバタしてたもんやから」
 本人の言葉通り仕事が立て込んでいるらしく、前掛けを着けたまま、調理帽を外して頭を下げて来る。
「ああ、そんな。お構いなく」
「いつもソレがご迷惑おかけしてるさかい、そういう訳にもいきませんわ」
 千尋は手に盆を持っていて、その上には個包装の菓子が乗せられていた。「迷惑なんてかけてへんわ」武蔵の口ごたえには全く耳を貸していない様子で部屋に上がり、机の上に盆を置いて月影へと差し出す。
「これね、京都の有名なお菓子なんです。良かったら召し上がって下さい。今年はここのご子息が、祇園祭のお稚児さんやってはるんですよ」
「……おちごさん?」
「今日やないんですけど、神様のお使いとして一人、長刀鉾いう鉾に乗る子がおるんです。その鉾も見てくるとエエね。武蔵、案内したりや」
「言われへんでも案内するわ。あ、つか鼓月やん! 俺これ好きやねん。月影さん、大きいし半分こしぃひん?」
 嬉しそうに封を切った武蔵が取り出したのは、波状にうねった煎餅で白いクリームを挟んだ菓子だった。ぱきん。谷間に沿って、煎餅が綺麗に半分に割れる。それを手渡して来る武蔵のそばで、千尋と明が微笑ましげに目を細めていた事に気付いた。
(あ……武蔵君が好きなの、覚えてたんだな)
 親にとって、子供は幾つになっても……。月影も人の親として覚えのある心情である。盗み見た表情と、わざわざ言いはしないが、それらしい理由をつけて息子の好物を用意する二人に、ほわりと心が温かくなった。武蔵に続いて齧った煎餅は、甘くてほろほろとしていて、何だか懐かしい味がした。
 その後しばし場に落ちた沈黙は、とても心地のよいものだった。どこからか聞こえて来る蝉の鳴き声。そして、普段より一層増えた観光客が路地を行き来するざわめきが、一月続く祭りが最も盛り上がる時期の活気を伝えて来る。「晴れて良かったわ」「そうやね」ここの所続いていた梅雨の雨が、今日は休みを取ってくれた事を喜ぶ千尋と明の短いやりとりが、優しく鼓膜を擽った。
「ああ、そう言えば……」
 そんな時間がしばらく流れた後、明がぽつりと口を開く。
「月影さん、今日はいつもの、言うてくれへんの?」
 肺一杯に吸い込みたくなるような穏やかな空気を噛みしめていた月影に、突如として話が振られた。不意打ちに一瞬驚きはしたものの、茶目っ気のある笑顔と共に贈られた言葉は、月影にとってそれだけで何を催促されているのか分かってしまう物だった。思わずきゅっと唇を結んでしまう。その表情は、強張っているような、でもどこか嬉しそうな、気恥ずかしそうな、何とも言えないものだった。
「え、えっと……」
「ああ、聞きたいわぁ。なぁ?」
「せやな、聞きたいな」
 明にこつんと肘で小突かれた千尋も、その言葉に同調する。たじたじになった月影が、武蔵に視線を寄越しても、彼はといえば我関せずといった様子で茶をしばいていた、しかし口元には愉快そうに笑みを浮かべていて……どうやら助け船を出す気はないらしい。
「あの……お、お父さん、お母さん、ただいま……」
 観念した月影が、ぎこちない様子で、言葉を紡いだ。
 初めて月影が、千尋と明の事を「お父さんお母さん」と呼び、ただいまの挨拶をした時の事。二人におかえりと言われた途端に、月影は、まるで堰を切ったように大泣きしてしまったのだ。以来、二人は事ある毎に、この挨拶をさせたがる。千尋も明も、武蔵の口からではあるのだが、月影の生い立ちをそれとなくは聞いている。昔言いたくても言えなかった事を、したくても出来なかった事を、今ようやく出来るのであれば、それは是非とも自分達に甘えて欲しいと思っていた。月影の中の小さな心が満足するまで、何度でも。
「おかえり」
「おかえり」
 明の柔らかい声と、千尋の落ち着いた声。二人分のお帰りが、温かく月影を迎え入れると、月影の瞳にはそれだけでうるうると涙の膜が張ってしまう。頬は上気して、口元が嬉しそうに擦り合わされ、心が喜んでいる様子が傍目からでも見て取れた。
 千尋も明も、そして武蔵も、この照れた子供のようにも見える月影の表情や仕草が、愛おしくて大好きなのだ。
「……じゃあ、俺らは仕事戻りますさかいにね。ゆっくりしてって下さい」
「あ。もし浴衣の着付けが上手い事いかへんかったら、いつでも呼んで下さいね」
「オカンは月影さんの事ヤラシー目で見るから呼ばん」
「見ィひんわ!!」
「せやな。女将は止めといたほうがエエわ」
「アンタまで何言うてるん!?」
 あけすけで仲の良いやりとりに、くすりと笑いを零す月影。それを嬉しそうに視界に留めた後、二人は部屋を出て行った。
 
 ◆ ◆ ◆
 
 コンコンチキチン。コンチキチン。
 コンコンチキチン。コンチキチン。
 
 歩行者天国になった四条通は、道路いっぱいの人、人、人。通り沿いに建てられた山鉾は提灯で彩られ、縁には浴衣を着た囃子方の男性が所せましと腰かけて、祭囃子を奏でている。軽やかで小気味よく、気持ちまで弾んでくるような、夏の夜によく馴染む音色だ。
「あ~! これこれって感じや~!」
 熱気のある人混みに押されながらも、瞳をきらきらさせて楽しそうな様子の武蔵を横目に、月影は目元を綻ばせた。
「凄い人ですね。昔からこうだったんですか?」
 月影の言う通り、まるで人を見に来たかのような混雑ぶりである。交通規制が行われているにも関わらずごった返す群衆は、予想をはるかに超えるものだった。
「いや~。俺がこっち居た頃はもーちょいマシやった気もするけど……でもま、京都の若い奴らにとっては、クリスマスみたいなモンですからね」
「え? クリスマス?」
「ここぞとばかりに恋人作ってデートする、季節のイベント事」
「あぁ……なるほど」
 とても分かりやすい説明に、思わず笑いが零れてしまう。確かにそこここに、浴衣姿のカップルが見受けられる。
「武蔵君も、女の子と遊びに来たりしたんですか?」
 その後、なんともなしに口をついて出た疑問に対して、武蔵が愉快そうな笑みを作った。
「え~? 気になります~?」
「いや、気になるって言うか……」
 話の流れから、大して考えもせずに聞いた事なのだが、どうやら武蔵としては嫉妬の虫を疼かせたいらしい。彼はわざとらしくもったいぶった雰囲気を出した後、しかし残念そうに首を横に振ったのだった。
「俺は残念ながら女の子と来たことはありません。野郎と集まって来た事はありますけどね~。浴衣着た可愛い女の子いっぱいで目の保養になるし」
「確かに、華やかですよね」
 二人の言う通り、色とりどりの浴衣に身を包み、髪を可愛く結い上げて、恋人や友人と連れ立って歩く女性の姿は、祭りの夜に華を添えていた。
「あっ、だから俺、祇園祭デート童貞って事になりますね。ヤダ~! 月影さんに初めて奪われちゃった~!」
 そう言ってしなっぽく頬を包み込む武蔵。思わず笑い声が零れてしまう。
「それを言うなら、私だって初めてですよ」
「うん。だから責任とるな」
「ええ? 何のですか?」
「えっ、うーん……この先ずっと一緒に夏祭りに行く的な?」
「ふふっ」
 中々素敵な責任の取り方だ。零れた笑みに、そんな気持ちを含ませた。
 メインの通りに出ている山鉾は、千尋の話にも出た長刀鉾。それから函谷鉾。郭巨山。四条傘鉾。そして何より月鉾、という名前の鉾は、少し親近感が湧いてしまった。数日後にはこの山鉾が、街中を巡行して厄を集めるのだそうだ。中でも、交差点で方向転換をする際の辻回しという作業が祭り一番の見所らしい。
「山鉾は舵なんてないんで、全部人力で方向転換するんです。車輪の下に竹か何か入れるんやったかな。音頭とりながら、とにかくすごい人数で引っ張って」
 知っている事を少し得意げに、そして分からない事は調べてまで教えてくれる武蔵の話を聞くのが、月影は好きだった。いや、話を聞くのが好きというよりは、武蔵の様子を見るのが好きなのかもしれない。
 本人に言ったらご機嫌を損ねてしまいそうで言えないが、まるで、男の子が好きな女の子に対して、一生懸命格好いいところを見せたがっているように見えるのだ。思わず父性のような母性のようなものが疼いてしまい、それでそれで? と聞きながら、軽い疑問を投げかけて、返事に感心してみたりして。そうやって武蔵に存分に花を持たせると、少しだけ「仕方ないなぁ」という風を装いながらも、とても嬉しそうにするものだから、そんな彼を見ているだけで、月影も嬉しくなってしまう。
 好意のある相手には恰好いい所を見せたい。その気持ちは、月影にもよく分かるから。
「屋台も見にいきましょ。裏の方に全部あるんです」
 ご機嫌な武蔵に連れられ、左右の路地に入って行くと、途端に屋台が軒を連ねている光景が広がった。驚く事に、本来飲食とは関係の無い看板を掲げている店までも、ここぞとばかりに道沿いでビールやジュースの販売を行っていた。そういえば、先程通りがかったアパレルショップのお姉さんは、浴衣を身に着け接客をしていたっけな。普通の祭りではなかなかない、地域一丸となって参加し盛り上げている様子を見ていると、こちらまで楽しい気分になってくる。
「イカ焼き美味そう。今日暑ィし、ビールも飲みてぇなぁ」
「あっ。私も、何か冷たい物食べたいです」
「晩飯は遅めに出してって言うてあるし、少し腹に入れときましょっか。何がいいかな~……」
「……なぁ! なぁって! お前武蔵ちゃうん!?」
 二人して、屋台から立ち上って来るいい匂いに目移りしながら歩いていると、突如として声が掛けられた。名前を呼ばれた武蔵が声の方向を振り返り、つられて月影も一緒に。
 見れば、三人組の男が、人ごみを掻き分けるようにしてこちらへ向かってくる最中だった。当然月影は全く見覚えが無いのだが、武蔵はすぐに検討がついたような顔になる。
「おお。久しぶりやな」
「うわ! なっつかしいわー! 全然変わらへんからすぐ分かった!」
「お前らはすっかりオッサンなったな」
「うっさいわ! 確かお前高校から県外やったな? どうしてたん?」
「それからずっとコッチにはおらへんけど、今日久々に祇園祭見に帰ってきてん」
「そうなんか~! あ、俺、新町通で店やっててな……」
 どうやら話を聞くに、地元の旧知のようである。嬉しそうに話をする武蔵と、他三人の邪魔をしないよう、月影は黙って後ろに控える事にした。仕事は何をやっているだの、誰それが結婚しただの子供が生まれただの、他愛もないが微笑ましい話題に花が咲く。
「で……そちらの方は?」
 そうやって、しばし偶然の再会を懐かしんだ後、当然の流れとして三人の興味は月影へと向かった。微笑みながら会釈をする月影。親戚か、仕事仲間か、年の離れた友人か。その辺りが妥当な答えだろう。そう思っていた。
「あぁ、この人な。別嬪やろ? うちの家内」
 しかしそんな予想を華麗に裏切り、武蔵はあっけらかんとそう宣ったのだ。その返答に、彼以外、月影も含めた全員の時が、一瞬止まった。
「……武蔵君!?」
「あ、そっか。月影さん、女扱いされんのあんま好きじゃねぇもんな。つーわけで、俺のダーリン」
 想定外の出来事に驚いた月影が声を上げるも、暖簾に腕押しといった様子でかわされてしまう。
「え、えっと……恋人、って事?」
「恋人っつーか、籍入れたし、パートナー? て言えばエエんかな」
「……お前ゲイやったん?」
「ちゃうで? 今も昔も普通に女の子好きやけど、この人は特別やねん」
 な、月影さん。
 にこりと笑って話を振れば、三人の視線も一斉に月影へと向かう事になる。何の心の準備も無かった所でいきなりバカ正直な紹介のされ方をされ、動揺やら羞恥やら何やらで、頬に熱が上っていくのを感じる。その月影の反応だけで、言葉はなくとも肯定しているようなものだった。
「は、はい……そうです……」
 結局、まるでお手本のような返事をした所で、場に沈黙が落ちた。活気のある祭りの喧騒が、どこか遠くに聞こえるようだ。
 次に返ってきたのは、ハッ、と、嘲笑めいて息を吐く音だった。最初に武蔵に声を掛けてきた男が、嫌悪と侮蔑の籠った表情を浮かべていた。
「……何やそれ。野郎同士で乳繰り合うてるって事なん? ……きっしょ」
「お、オイ!」
「男同士で家内だのダーリンだの、寒いって気付けるとエエな」
 先程まで楽しそうに話していたとは思えない程冷めた声音で吐き捨てた男は、そのまま大股で月影と武蔵の脇を通り抜けていった。残る二人はどうしたらいいか分からない様子で数歩まごついた後、友人の後を追いかけていく。
 遠ざかる後ろ姿をじっとねめつけていた武蔵は、背中が小さくなった所で、ふんと一つ鼻を鳴らした。「下らね」ぽそりと吐き捨ててから、踵を返す。
「あ、あの、良かったんですか?」
「何が?」
 慌てて武蔵に続いた月影が、隣から顔を覗く。その表情はいつも通りで、特に何か不快感が滲んでいるようには見えなかったのだが……。
「お知り合い、だったんですよね? 別に正直に紹介しなくても……」
「じゃあ逆に、何でわざわざ誤魔化さなアカンねんっていう話でもありますよね」
 ぴしゃり。そんな言葉がピッタリだった。
「俺はアンタの事が自慢だし、他のヤツにも自慢したいと思うし、アンタの事が大好き。それを素直に表現しただけ。……それに対して何を思うかなんて個人の自由やから、他の人間の受け取り方に口出しは出来へんけど」
「……」
「ま、だからってテメェ勝手な暴言ぶつけてくるヤツは、こちとら嫌いですけどね。でもそんなヤツに遠慮して、好きなヤツを好きって言えない自分自身で在る方が、俺はずっと嫌やから」
 武蔵の言葉は、意固地にも聞こえた。これからも大切に関係を育んでいきたい相手はともかくとして、さして繋がりがあるわけでもない相手に対して、本当の事を喋る必要もない。ネガティブな反応がありそうな場所は、それとなく躱す事も大切な処世術だ。
 だが、そんな事は言われずともよく分かっているであろう武蔵が、わざわざ我を押し通したという事は、それほど彼の人生において大切な一部だからなのだろう。そういう位置づけに、自分を置いてくれているのだろう。頭でわかっていたはずのそれを、改めてまざまざと見せつけられた途端、月影は、いつの間にか逃げ腰になっていた自分自身が恥ずかしくなった。
 堂々と腹の据わった態度でいた武蔵の隣で、突然の事とはいえ、自分はどんな態度を取っただろうか、と。
 そうだ。そもそも恥ずべき事など何もない。悪い事などしていない。誰かに迷惑をかけている訳でもない。ただ一緒に居たいだけ。相手が大切なだけ。その通りだ。たまたま同性同士だというだけで、この場を行き交う恋人同士や家族連れと、自分達は何も変わらないはずなのに。それなのに、あの時自分は、一体どんな態度をしていたのだろうか。世間の常識という目に見えぬもの対しての、自信の無さや後ろめたさが、滲んでいたのではないだろうか。
 ふと目線を上げれば、遠方に、人ごみの中で頭一つ分抜きんでた長身の男性二人組の姿があった。外国人観光客だろう。二人共ブロンドの短髪でTシャツ姿のラフな出で立ちだ。
 二人はこの暑い中、何百という人目がある中で、そんな事は全く気にも留めずに、互いの腰に手を回して身を寄せ合い、仲睦まじい様子で歩いていた。一目見ただけで、どんな関係か、どれほど親密なのかが伝わって来る光景だった。
 彼らにとってはきっとそれが、「当たり前」なのだろう。
「あ、あの……武蔵君」
「?」
 月影が、半歩前を歩く武蔵を呼ぶ。振り返ってきた武蔵の左手に、思い切って、自分の右手をコツリと触れさせた。
「……手、繋いで歩きませんか……?」
 その言葉と行動に、武蔵の目が丸く見開かれる。
「……珍し。どうしたんすか?」
 今しがたあんな事があったからだろう。月影の心境を慮り、それとなく手を遠ざける武蔵。しかしそれを追いかけた指先が、しじら織りの着物の裾を摘んだ。
「……武蔵君の言う通りだと思ったんです。何を思うかなんて、相手の勝手なのに、それに遠慮するなんてバカみたいだなって……何だか、自分が恥ずかしくなって」
「だからって、無理しなくても……」
 眉をひそめつつの言葉に、月影が首を横に振る。
「分かって下さいよ。……私が、今、武蔵君と手を繋いで歩きたい気分なんです……」
 それとも、武蔵君は、嫌ですか?
 顎を引き、様子を伺うように問いかけると、武蔵の口角が一瞬むずむずと動いた。綻んでしまうのを止められない口元を、しばし手のひらで覆い隠して顔を背けてから……改めて勢いよく月影に向き直る。
「大歓迎に決まってるやろーが!!」
「!?」
「宿まで離さん!! 手汗でビッショビショになっても離さへんからな!!」
「いや、それは離して下さい気持ち悪いです」
「急にドライになんのやめて!?」
 歩きながら、二人の右手と左手が重なった。最初は遠慮がちに手のひらを繋ぎ、しかしすぐに、指と指とを絡めて交差させ、密着させる形へと。水かきに感じる駆け足な脈拍が、慣れぬことをする少しの緊張と、それ以上の気分の高揚を、互いの心へと伝えていた。
 甘くて、むず痒くて、心が浮き足立って、相手の体温が愛おしくて。ああこんなのまるで、ティーンの恋愛みたいだ。
 すれ違った女の子が、あっと小さく声を上げ、友人と何かを囁き合った。だけどもう、そんな事、いいじゃあないか、どうだって。だって、誰にどう思われようと、自分たちは今、大切な人と手を繋ぎたいのだから。
「……なんか、あっちぃな」
 少しだけ照れ臭そうに呟かれた言葉に、月影も、うん、と同意した。
 咽が乾いたという武蔵がビールを買って、それからアレコレ迷った挙句、結局スタンダードににたこ焼きを食べようという結論に。繋がれた手に気付いた屋台のお姉さんは、朗らかに笑みながらパックを手渡してくれた。
「浴衣デート、いいですね。楽しんで下さいね」
「おーきに」
「ありがとうございます」
 誤魔化す事なく、ただ事実を認めて礼を述べる。「素敵です」と、もう一度笑顔が返された。
 不思議な事に「やる」と決めた瞬間に、周りの目線が全く気にならなくなった。あるいは初めから、何でも無い事だったのかもしれない。少しの棘に目を向けすぎていただけで、本当は最初から、世界は温かかったのかもしれない。
 心無い意見に晒されたその瞬間は、確かに少し痛いけれど、一方で何て事無く微笑んでくれる人も居る。他人の人生や選択にケチをつけたい人間は、どこにだって居るものだ。だからもう、そんなものには目もくれず、自分たちは自分たちのやりたいようにやろう。
 特に休憩所などは設けられていないため、縁石に二人仲良く腰掛けた。辺りは同じように、人混みの中で一息つく場所を求める人々であふれている。
「手が足りん」
「一回離せばいいじゃないですか」
「やだ。離さねぇ」
「もう、変な所で頑固なんだから……」
 片手でやりづらそうにパックを開封する武蔵に、月影が苦笑した。膝の上にはペットボトルのお茶。片手には、カップに注がれた飲みかけのビールを持っている。そして右手は、相変わらず武蔵の左手と繋いだままだ。
「はい」
 両手が塞がっている月影の口元に、楊枝に刺したたこ焼きが差し出された。言いたい事を理解し、ぱくりと、一口で頬張る。武蔵の目元が、嬉しそうに細まった。
(……嬉しそうな顔……)
 まるで子供のような笑い方だ。思わずこちらまで、一緒になって目を細めてしまうような。
「月影さん、飲みたかったらビール飲んでいいっすよ。それめっちゃ冷えてる」
「ダメですって。飲んだらすぐ寝ちゃうの知ってるでしょう?」
「勿体な~。この暑い中でクッといくのが最高なのに」
「お酒のおいしさが分からない側の人間なんです。はい、自分で持って」
 今度は武蔵にビールを持たせた月影が、空いた方の手でたこ焼きを差し出した。食べさせあいっこなんて、外では当然の事ながら家でもそうそう無い事だ。またも破顔した武蔵が、月影と同じように頬張り、堪らずふふふと笑い声を零した。
「何かデートしてるみてぇ」
「本当にね」
「月影さんは、奥さんとこんな感じのデートしました?」
「ナイショ」
「はぁ? 何でっすか」
「武蔵君、嫉妬しちゃいますから」
「しねーよ!」
「ふふっ。もう一個」
 がなりかけた武蔵の口元に、有無を言わせずたこ焼きを押し付け黙らせる月影。何という子供じみた行動だろうか。月影は、沢山背伸びをし続けて、年を重ねただけの立居振舞を身に着けてはいるものの、たぶんきっと本当は、とても純粋で子供っぽい人間だ。たまにちらりと覗くその気質が、愛おしい。
 悪戯臭く笑った唇に、キスしたい。そんな気持ちを紛らすように、押し付けられたたこ焼きに齧りついた。
「……たまにはいいですね。こういうのも」
「な」
 遠くに響く祭囃子が、賑やかな混雑が、じっとりとした暑さと、不自由な互いの片手すらも。非日常で、開放的で、いつも無意識のうちに腹の中に籠らせてしまっている重たい空気を、ほうっと外へ吐き出す手伝いをしてくれた。
 今年もまた、普段よりも少し素直に大切な人と触れ合い、そして、自分の心を、人生を、選択を、大切に出来た気がする。
「……やっと見つけた!」
 そんな風に穏やかな時間を満喫していると、唐突に割って入る声があった。その主を見とめた瞬間に、武蔵の眉根が僅かに寄る。それは、直接何かを言った当人では無いのだが、先程の三人のうちの一人だったからだ。
「……何か用なん?」
 問いかける口調は、怒っているとまでは言えなかったが、やはりどこかトゲトゲしいものだった。人ごみの中を探し回っていたのだろうか。肩で息をする男が歩み寄って来る。
「アイツの代わりに、謝りに来てん。酷い事言うて悪かった」
「本人でもないのにか? ご苦労さんやな」
「あの時咄嗟に、何も言えへんかった俺も俺やから」
 そこまで言って、上がった呼吸を一つ、整えて。
「その……俺が言うのも変な話やけど……アイツ、昔、武蔵の事ちょっと気に入っててん」
 藪から棒な事実を伝えられ、思わずきょとんとした表情になってしまう武蔵。しかし男は構わず続けた。
「だから、いきなりの事で驚きすぎて、どう返していいか分からんようになってしもたんやと思う。いや、だからって何言うてもエエってワケではないよ? あれはアイツが悪い。でも、性根は悪いヤツやないねん。本人もあの後後悔してたみたいやし、なんていうか……許したって、とは言われへんけど……」
「もうエエて」
 しどろもどろな説明を、武蔵の言葉が遮った。はあ、と溜息を一つ零した後、首を搔きながら顔を上げる。
「……しゃあなし、来年の祭りでメシ奢ってくれたら、許したるわ」
 それは、事実上のお目こぼしだった。
「言うとく!」
「あーもう、モテるとしんどいな~」
「ホンマやな」
 冗談ぶった武蔵の言葉に、肩の力が抜けたのだろう。強張った表情から一転、目元を柔らかくした男の視線が、依然として結ばれたままの手のひらへと向かった。
「……お似合いや思います。すみません。ツレが酷い事言うてしもて」
 申し訳なさそうに眉を寄せる顔に対して、「いえ」と、月影がかぶりを振る。
「私も、知られるのが恥ずかしいという気持ちが、心のどこかにまだあったのかもしれません。自信の無さが滲んでいる相手には、人は何かを言いたくなるものですから。……でもおかげで、武蔵君と大切な事が話せましたし、こうして手を繋いで歩くキッカケが出来ました。ありがとうございます。わざわざ謝りに来て下さって」
 ふわりと目を細める表情を見て、男が言葉につまる気配があった。先程までは友人の無礼のせいで気もそぞろだったのだが、落ち着いて眺めると、なるほど確かにこれならば、武蔵の言う事も分からなくもない。つい一瞬見惚れてしまい、何とも言えない気分がむくむくと……
「おい、やらへんで」
「は、はぁっ!? 何の話やねん!!」
 とはいえそんな下心、隣に居る優秀なセコムが即嗅ぎ付け、牽制を仕掛けられてしまったのだが。
 
 ◆ ◆ ◆
 
 鮨詰めの地下鉄から抜け出して、宿に向かうまでの帰り道、月影は祭り会場での事を思い起こしていた。
 人が多くて疲れたし、一悶着もあったけど、楽しかったな、と。
「……武蔵君、責任取って下さいね」
「へぇっ!?」
 余韻に浸るまま、思わずぽろりとそう零すと、武蔵が素っ頓狂な声を上げた。
「もう、さっき言ったじゃないですか。これからも一緒に夏祭りに行くって」
 驚愕した表情で視線を寄越して来た武蔵なのだが、その言葉に一転、胸を撫で下ろす。
「びっ……くりしたぁ~……。ついに月影さんも妊娠したのかと」
 ぺしん。間髪入れずに、月影の手のひらが武蔵の後ろ頭を捉えた。何をどうすればそういう思考になるのだろうか。冗談冗談、と笑いながら、両手をホールドアップする武蔵。
「来年は、影縫達も一緒に来られるといいっすね」
「ああ本当に。夜風君、鉾に乗せてあげたら喜ぶだろうな」
「オカンはちょっとやかましなるやろうけどな。あのババア面食いやから」
 二人の結婚式にて、初めて影縫と顔を合わせた時の明の様子を思い出す。「こんなんアイドルやん!!」「芸能界以外にこんな子おるもんなん!?」「あぁ、何でウチの息子はこんな風に育ってくれへんかったんやろぉ……!!」等々。確かに面食いの気があるらしい明は一人で大盛り上がりの様子であった。全く、楽しそうで何よりです。
 僅かばかり重たくなった下肢を感じながら、石畳の道を歩く。これといった会話は無いものの、沈黙を埋めるための話題を絞り出すわけでもなく、ただただ、静かな時間が流れていく。祭り会場の混雑を一度体験してしまえば、宿周辺など静かなものだ。オレンジ色の明かりが風情ある街並みを照らし、まばらな人並みが留まる事無く流れ、そして二人の脇を、お勤めに行く途中の舞妓さんがすれ違っていった。
「月影さん」
 電車を下りて以降離れていた手のひらを、武蔵が徐に掬い上げる。夜の明かりが反射する瞳が、横から月影を捉えた。
「これからも行きましょうね。来年も再来年も。じいさんになってもずーっと」
 くしゃりと笑ったその表情は、純粋で、きれいで、格好良くて、そして記憶の中のあの人の笑顔と、ほんの少しだけ重なって。月影の心臓の内側が、きゅんと、密かに音を立てた。
(ああ、大好きだ)
 胸に浮かんだ言葉は口から出る事は無かったが、その代わりに手のひらを握り返しつつ、ただ頷く事で答える。しかしそれだけで十分伝わったのだろう。武蔵がもう一度、屈託なく笑った。
「あー腹減った。結局たこ焼きつまんだだけやもんな」
「千尋さんのご飯、楽しみですね」
「鱧出ねぇかな~。鱧鱧」
「何が出るかは聞いてないんですか?」
「それは楽しみにとっとこ思て。ひろうすだけは言うてあるけどな」
「ああ、こんな事話してたら、一気にお腹空いてきました」
「ほんまそれ。ただいまぁ~!」
 玄関をくぐりつつ帰宅を知らせる武蔵に続いて、月影も、小さな声で、ただいま、と。
 仲良く手を繋いだ二人を、旅館の明りが出迎えた。

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