小説

それでも生きていく Ver.武蔵

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BL/朔宮月影/守屋武蔵

2018年10月にpixivに投稿したものです。武蔵君が月影さんと一緒に京都の実家に帰省します。観光地や温泉宿を満喫する二人だけど、武蔵君にはある決意があるようで……。

『なんや、お前から電話なんて珍しい』
 電話口から伝わる、とんと聞かなくなった声。ぶっきらぼうなソレが懐かしく、また、相変わらずだなぁ、という気持ちにもさせられた。
「あのな、今度部屋取っておいて欲しいねん」
『……益々珍し事言うわ。帰って来るんか?』
「うん、まぁ、そっちの方に旅行。そのついでにどうせやったらウチ泊まろ思て。いつも世話になってる会社の上司も一緒やさかい、いい部屋押さえといて。ちゃんと代金は支払うし」
 上司とプライベートで旅行、というのは、一般的に考えて稀有な事だからだろうか。しばしの沈黙が流れた。が、その後特に何か詮索されるワケでもなく「ふーん、分かった」との言葉が。
『で、いつの話になるん?』
「えっとな……」
 手帳を確認しつつ日にちを伝える。余裕を持って日取りを組んでいたため問題無く部屋を取る事が出来、予約自体はすぐに終了した。
『明が喜ぶやろなぁ。何年振りやろか、電話も碌に寄越さんこのドラ息子は』
「便りが無いのは元気な証拠って言うやろ」
『今呼んできてエエか?』
「オカン話長いさかいやめて」
『何で電話代わらへんかったんやって、俺が後から怒られるんやけどなぁ』
「ええやん怒らせときぃや。慣れっこやろ」
『言うやんか。……ほんなら、部屋取ったさかい、ちゃんと帰ってきぃや』
「はいはい」
 特に会話が長引くでもなく、そこで通話は終了した。
 耳から離したスマートフォンの画面にしばし目線を落とし、それから肺の中身を大きく吐き出す。
「……よし」
 顔を上げたその表情は、家族と言葉を交わした直後にも関わらず、どこか強張って見えた。

 目の前で、興奮が隠しきれぬ様子でわなわなと震える母親を、武蔵は面倒臭そうな表情で眺めていた。
「ちょっ……ちょお!! この方が、アンタの上司さん!? ほ、ホンマに!?」
「嘘ついてどうすんねんな」
「初めまして。いつも武蔵君にはお世話になっています。月影と申します」
「あっ、初めまして……やない!! ウソやろ!? こんっな明らか一般人とは雰囲気違う美形がアンタの上司なワケある!? モデルさんか何かやろ!? ツテなりコネなり使うてドッキリ仕掛けてんねやろぉ!?」
「一般人のババアに何でわざわざドッキリ仕掛けなあかんねん。誰も求めてへんわ。需要なさすぎるわ」
「誰がババアや!! ……て、ことは……正真正銘、アンタの上司さん……!?」
「だからハナからそう言うてるけど!?」
 出たよ。出た出た。オトンも俺もこういうタイプやし、業者なり何なり周りにもガサツなん多いさかい、優男系の美形慣れしてへんねん。そういうのに弱すぎんねん。軽くミーハーな所がある母親に、思わず頭を押さえた。まぁかくいう武蔵も、初対面では月影の事を、一般人だとは思えなかったのだが。
「はあぁ……ほんっま、キレーな見た目してはるわ……。なんや、尻込みしてしまうなぁ」
 そして、父親に関しても、普段自分の周りに居るのとは一線を画した存在感に、少々気圧されてしまっていた。二人の反応に、困ったように笑う月影。それを横目で見止め、武蔵が半歩前へ出た。
「ちょお、大袈裟にしすぎや二人共。こんなん三日で見飽きんねん。慣れればフッツーの、むしろ生活オンチでワーホリのダメなオッサンやで。今マトモに見えるのはネコ被ってるだけやで?」
「なっ……上司さんに向かって何て失礼な事言うんやアンタは!!」
「いえ。その通りですから。武蔵君には、仕事どころかプライベートでもお世話になりっぱなしで、最近ではどちらが上司なのか、本当に分からない程なんです」
 そんな事言われましても、みたいな表情で、目の前の二人はちらりと顔を見合わせた。
「おら、あんまり二人が喚くさかい、月影さん、困ったはるやんか。客に気ぃ使わせてエエんか?」
 そして武蔵の言葉に追い打ちをかけられ、佇まいを直す。
「なんや……すいません。ほんま驚いてしもうて。初めまして、武蔵の母の明です。息子がえらいお世話になってます」
「千尋です。……ああ、顔に似合わへん名前なんは分かってますさかいに」
「夫婦で名前並べると、絶対反対や思われるんです」
「まぎらわしさかい、説明するまでがワンセットやもんな、いつも」
「ああ、そんな事より、いつまでもお荷物持たせたまんまですみません。ようこそ、おこしやす。お部屋にご案内致します」
 
 武蔵の実家は京都で旅館を経営していて、父親が料理長、母親が女将を務めている。
 武蔵は「年数ばっか一丁前で古いだけなんで、あんま期待しないで下さい」と言ってはいたのだが、蓋を開けば随分と門構えの大きな老舗旅館で、数寄屋造りの本格日本建築。いい意味で期待を裏切られる事となった。
 趣のある周囲の景観を一望できる部屋に通されると、武蔵は勝手知ったる様子で窓を開け、座布団を二人分取り出した。
「すいません。基本ガサツなのばっかなんで、お行儀良さそうなヤツ相手にどう接していいか分かってないんですよ、うちの親」
「いーえ。とんでもない」
 そしててきぱきと急須を持ちだし、茶葉を入れて、お湯を注いで蒸らし始める。その一連の動作を、月影はただ座って見ていただけだ。
 にこにこと笑ってこちらを眺めて来る様子に、二人分の湯呑を用意していた武蔵が気付き、「何だよ」と。
「手際がいいなぁと思って」
「ハァ? 茶淹れるのに手際もクソもあるか」
「いえ、そういう事じゃなくて……どこに何があるのか、分かり切ってる感じがして」
「まぁそりゃあ……ガキの頃、散々手伝わされたからな」
 すぐに、いい塩梅の緑茶が湯呑に注がれた。ほかほかと湯気を立てた薄緑色が綺麗だ。
「お父さん、武蔵君とソックリでしたね」
「みたいっすね。本人達は良く分かってないんですけど、そんな似てます?」
「ええ。瓜二つ」
「ふーん。ま、親父に似てりゃ間男も橋の下で拾ってきたって説も無くなるんで、そこは安心ですよね」
「ふふっ」
 武蔵が緑茶に口をつけ、月影もつられるように一口。
 感慨深いなぁ、と思った。
 いくら付き合いが長いとはいえ、自分は所詮、武蔵が入社した以降の事しかこの目で見てきてはいない。もちろん話でたまに過去を聞く事はあれど、その程度だ。武蔵がどんな子供時代を過ごしていたか、どんな人たちに囲まれて成長したのか、知りえる術は、ほんの少しの思い出話からの推察のみ。
 だがここに居る人たちにとって武蔵は、どうやら、当時そのままのようだ。部屋に通される間に何度も「武蔵君!?」と驚いたように声を掛けられ、「大きなったなぁ~!」だの「全然連絡しぃひんから、寂しかったんやで!」だの「ウチ継ぐ気になったん!?」だの、まるで子供に対して話しかけるように接してくる。それが、武蔵の過去を垣間見ているかのようで、楽しかった。
 沢山の人に愛されて育ったんだな、と言う事が、目に見えて分かった。
「どこ行きたいですか? 嵐山? 二条城? 清水寺? 言ってくれれば大抵は案内出来ますよ」
 なんて、温かい思いに浸っていると、武蔵が駅で取ってきた観光案内の冊子を開きつつ問うてきた。どこか得意気にも見える様子が微笑ましい。無意識のうちにだろうが、いつもの威圧感はナリを潜め、肩の力が抜けた表情をするようになっている。そうですねぇ。月影が口を開いた。
「武蔵君のオススメがいいです。武蔵君が好きな場所に、私も行ってみたいです」
 武蔵は一瞬意外そうな顔になったのだが、すぐに僅かばかり嬉しそうな表情で思案し始める。そして「鈴虫寺がいいな」とぽつり。
「鈴虫寺?」
 聞きなれない単語をおうむ返しする月影に、武蔵が頷いた。
「ちょっと変わったお地蔵さんが居るお寺なんですよ。中心から少し離れてるんだけど、俺は結構好きなんです。静かでいい所ですよ」
「へぇ~。いいじゃないですか。じゃあまずはソコ行きましょうよ」
「よし。決まりな」
 その後はしばらく部屋で休みつつ、他に回る場所についても段取りを描いた二人。ついつい尻に根が生えてしまいそうになったのだが、さすがにそれは勿体ない。荷物も置いて身軽になった状態で、一旦部屋を後にする。
「武蔵君!?」
 そして旅館の外に出ようとした所、本日何度目か分からぬ声が掛かった。
 武蔵はもちろん月影も振り返る。するとそこには、他とは少し違う着物を着た仲居が、口元に手を当てて立っていた。
「……やっぱり武蔵君や! もう帰ってきてたんやなぁ!! 大きなってぇ!!」
 驚きと興奮のあまり、若干涙ぐんでいるようにも感じる表情で近づいてくる。その仲居を武蔵はしばし思い出すかのようにじっと眺めていたのだが、目の前に来た時に、はっとした表情を見せた。
「サキちゃん?」
「せや! せやで! 覚えててくれたん!? ああ、どないしよ、懐かしくて泣きそうやわぁ……」
「いや、泣いてるやん」
 ついにはぽろぽろと涙を零し始め、それを誤魔化す様に俯いて懐からハンカチを取り出し目元に押し当てる。ツッコミを入れられ少し笑った仲居は、ぐすっと鼻を啜ってからもう一度顔を上げた。
「はあ~……昔から大将似のカッコええ子やったけど、えらい二枚目になってしもうて! なんやドキドキするわぁ。そちらのお連れ様は、どないな方なん? モデルさんみたいな色男連れてまぁ」
「俺ントコの上司やで。月影さん言うんや」
「月影さん! まぁ、えらい風情のあるお名前してはりますなぁ。改めまして、おこしやす。当旅館の若女将を務めております、サキと申します。お困りごとがあれば何なりとお申し付け下さいませね。どうぞ、ごゆるりと」
「あっ、すみません。ご丁寧にどうも……」
「え!? つか、サキちゃん若女将やってるん!? は!? 嘘やろ!? 無理やろ!?」
 月影の挨拶もそこそこに遮り、武蔵が驚愕した様子で問いつめる。その言葉を受けて、おっとりとした雰囲気の女性は口元に手を当てて笑ったのだった。
「毎日毎日、勉強する事ばっかりやけどな。何とかやらせて貰てるで」
「……はぁ~……世の中、何がどう転ぶか分からんモンやな……あのサキちゃんがなぁ……」
 いまだ信じられないといった様子で、仲居の事を眺める武蔵。が、月影がきょとんとしている気配を感じたのか、すぐに振り返った。
「ああ、この仲居さんね、昔っからすっげぇ気ぃ弱くて、理不尽な客に目ぇつけられてはある事ない事言われて半泣きになってたような人なんですよ。俺が、自信なさげにしたら付け込まれるからダメだって言うのに、それでもまたオドオドして何回も泣かされてて、向いてねぇんじゃねぇかなぁって、ずーっと思ってたんです」
「いややわ。そんな事思ってたん?」
「いや、実際そうやったやん。アタシ向いてないんかなぁって、当時中坊の俺にまで愚痴ってきてたやん」
「お客様の前でそんな昔の話しぃひんといてや。今はもう、若い子から、サキちゃんはニコニコしながらヘンなお客さんの事もうまーくノせてしまうさかい、勉強になるって言われてるんよ?」
「若い子って……ああ、そっか。サキちゃんももうエエ年やもんな」
「お互い様やろ。それより、すみません。お客様そっちのけで、盛り上がってしもうて」
 そこでくるりと月影の方に向き直り、若女将は申し訳なさそうに微笑んだ。しかし月影は別段気にした風もなく「とんでもない」と。
「皆さんあちこちで武蔵君の昔の話をして下さって、私にはもう絶対に見られない事ばかりですから。それを聞いているだけで、十分楽しいんですよ」
「……そうですか。武蔵君、エエ上司さんに恵まれたんやね」
 月影の言葉に、感慨深げな表情をしてから、サキがハンカチを懐に納めた。
「お出かけですか?」
「ええ。武蔵君のおすすめのお寺があるそうで。案内してもらおうと思って」
「そうですか。武蔵君が一緒なら心強いわね。楽しんでいってらっしゃいませ」
「ありがとうございます」
「サキちゃん、また後でな」
「ふふ、また後でな」
 様になる様子で綺麗に頭を下げたサキを、しみじみと眺めながら数歩歩いた後、武蔵は踵を返した。
 
 
 
 最寄り駅を降り、山間の住宅街を走るバスに揺られる事しばらく。二人は件の寺に到着した。
「静かな場所にあるお寺ですね」
「おう。混む時はすげぇ混むんだけど、今日はそうでも無さそうな」
 寺は喧騒から離れた自然の中にあり、周囲には緑が豊かに生い茂っている。人の数はそんなに多くはなく、空気も涼やかだった。
 まばらな参拝客と共に、書院へと通される。所々に洒落のきいた、親しみやすい説法を聞き、寺内を一周してから、入り口の地蔵の前へと。
「俺、中学の時に、部活の団体戦で優勝させて下さいって、このお地蔵さんにお願いしに来て優勝させて貰ったんです。それ以来、なんかこのお地蔵さんが好きで」
 賽銭を入れつつ語られた武蔵の思い出話も、この時初めて聞いたものだった。京都に来てから、武蔵の普段は見られない側面を、折に触れて見る事が出来ていた。
 住所と名前を述べてから一つだけお願い事をすると、この草鞋を履いたお地蔵さんが、家まで叶えに来てくれるらしい。さて、何をお願いしようか。月影が思案する。
(影縫達が、ずっと幸せでありますように)
 ちらりと横目で武蔵を見ると、既に手を合わせ、瞼を下ろしている最中だった。
(あと、武蔵君と仲良く暮らせますように)
 ダメだ。これでは二つになってしまう。一つだけ。一つだけに絞るとすると……。
「……」
 ふと、名案が下りて来た。頬を綻ばせ、武蔵に続いて月影も手を合わせる。
 どうか家族皆が、健康で仲良く暮らせますように。
 
 
 
「さっき、長い事何をお願いしていたんですか?」
 帰りはタクシーを拾ったその車内、月影が武蔵に問い掛けた。何せ武蔵はといえば、月影が願掛けを終えても尚、じっと手を合わせていたのだ。
 んー? スマートフォンの地図アプリを眺めていた武蔵からは、生返事が返ってきた。
「……今日の晩飯、ひろうす出ますようにって」
 その答えに、思わず噴き出す月影。
「ええ? それだけであんなに?」
「いや、オトンが作ったの、ほんと美味いんすよ。俺大好物で。それより月影さんは?」
 あ、これは上手い具合にはぐらかしたがっているな。武蔵の内心を汲み取った月影は、追及を野暮とする事にした。それに、訳あって、何となく察する事は出来たから。
「私は、家族皆が健康で仲良く暮らせますように。って」
 空気を切り替えながらの月影の言葉に、武蔵が液晶画面から目線を上げて笑う。
「うわ、月影さんらしー。もっと欲かけばいいのに」
「私利私欲のお願いごとはダメだって、住職さんも仰っていたじゃないですか」
「じゃあ俺の私利私欲も叶わねぇかなぁ」
「子供が嬉しいと、親も嬉しいですから。私利私欲ではないんじゃないですか?」
「おっ、何か父親みたいな事言ってますね」
「実はこれでも人の親なので」
 冗談に冗談で返し、繁華街でタクシーを降りる。先程までの寺周辺とは違い、京都の中心地は、平日の昼間にも関わらず多くの人で賑わっていた。外国人の姿も多く見受けられる。
 武蔵が食べたいと言っていた濃すぎる抹茶のアイスを食べて、周辺の観光地をのんびり散策した。武蔵は場所ごとのちょっとした知識を教えてくれたり、ここは小学校の遠足で来た、なんて話もしてくれたりして、月影は、そんな彼の話を聞く事も密かに楽しんでいた。
 そして夕方宿に戻ると、ひろうすがちゃっかり仲間に入った夕食が出迎えてくれた。配膳してくれたサキ曰く「大将、絶対武蔵君が来る日に合わせてメニュー考えてはりましたよ」だそうだ。
 旬の食材をふんだんに使った懐石料理に舌鼓を打ち、温泉で旅の疲れを癒す。そんな、絵に描いたような贅沢な時間を満喫し、風呂でいい具合に茹で上がった二人が廊下を歩いていた折
「若旦那! 若旦那~!」
 背後から響く黄色い声に呼び止められた。
 げんなりとした様子で武蔵が振り返る。少し先には、年配の仲居が数名立っていた。
「あのな……でっち上げようとするのやめぇよ? 継がへんからな?」
「エエやん細かい事言わへんでも。そんな事より、お客さんからお菓子頂いたのこれから開けるんやけど、折角やから武蔵君も来ぃひん? 良かったらほら、月影さんもご一緒に!」
 きゃっきゃとした提案に、しかし月影は苦笑を返して手のひらを向けた。
「いえ。私は遠慮しておきます。久々の水入らずをお邪魔する訳にはいきませんので」
「ええ~……? 気にしゃはらんでええのに……」
「なぁ? むしろ居てくれはった方が……」
「何や。アンタら、俺だけじゃ不満なんか?」
 あわよくばと思っていたらしく渋る仲居に対して、武蔵がちくりと皮肉を漏らす。すると皆、慌てた様子でぶんぶんと首を左右に振っていた。
「そんな事ないで!」
「武蔵君は昔からアタシらのアイドルやもんな~。こんなイケメンに育ってくれて嬉しいわぁ~眼福やわぁ~」
「ほな月影さん、ちょっとだけ武蔵君お借りしますねー。すぐ返しますさかいに!」
「俺は物かいな……」
「ささ、行きましょ若旦那~」
「継がへんで」
 お姉さま達に引き連れられ、廊下の奥へと歩いていく様を微笑ましい気持ちで見送った月影。その後は、すぐに一人の部屋に帰る気にもなれず、館内をぶらぶらと歩いてみる事にした。
「わ……綺麗」
 どこも趣があり、美しい建物なのだが、中でも夜の中庭は壮観だった。オレンジ色の明かりとかがり火でライトアップされた日本庭園に、思わず足を止めて見入ってしまう。
「色男は、何をしてても絵にならはりますなぁ」
 すると、意識の外側から声を掛けられた。
 はっとして見れば、そこには武蔵……ではなく、彼の父親が立っていた。前掛けを外していて、どうやら、今日の仕事はもう終わっているようだ。
「こんばんは。お料理、とっても美味しかったです」
「ドーモ、おおきに。アイツは?」
「仲居さん達に、とられちゃいました。私も誘われたんですけど、お邪魔するのも悪い気がして……」
「ハァ。それで、お連れさんほったらかし? ……相ッ変わらず、姐さんらにモテるんやさかい……。まぁ、ええわ。ほな、お待ちの間一本浸けましょか? サービスで」
「あ、いえ、私、下戸でして……」
「そうなんですか。顔色変えへんと、飲まはりそうなモンやのに」
「ふふ。よく言われます」
「ほな……お暇やったら、少しだけ、付き合うて貰えませんか?」
 くい、と、手首を傾けるような動作で言われ、月影はきょとんとしてから右を、左を、確認した。そして「私がですか?」と問う。千尋は、ぷっと噴き出した。
「他にどなたがいはりますか?」
「思ってもいなかったので……」
「まぁ、年寄りの相手してても、つまらんやろうからね。祇園のネェさん方と遊びたいんやったら、それでかまへんのですけど」
「とんでもない! それどころか、私、そういうお店が少し苦手で」
「……中身までお上品ときたもんや。そないな人がおるんですね」
 丁度武蔵が居ない間、どう過ごそうかと思案していた所だったので、千尋の提案は月影にとっても嬉しかった。折角なので部屋で飲もうという話になり、猪口と徳利を持った千尋と連れ立って客室に向かった。
 向かい合って座り、手酌をしようとした千尋を制して月影が酌をする。
「武蔵は、よぉやってますか?」
 猪口を傾けながら問いかける仕草は、とても様になっていた。
「ええ、勿論です。最近なんてもう、武蔵君が居るから私も安心して仕事が出来ているぐらいですから」
「……そぉですか」
 息子が褒められてむず痒いのだろう。照れ隠しのように、喉奥でくっと笑ったのだが、千尋はそれ以上余計な事を言わなかった。
「努力家で勤勉で真っ直ぐで優しくて……とてもいい子ですね、武蔵君は」
「そない褒め過ぎひんといて下さい。ざわざわしますわ」
「でも、ご自慢の息子さんでしょう?」
 月影が微笑みながら問いかけると、少々間があったのだが、肯定の意が返ってきた。月影も、その反応に嬉しそうに笑った。
「お恥ずかしい。バカを見たけりゃ親を見ろ、言いますからね」
「分かりますよ。私も結局、息子が一番可愛いですし、あんなイイ子は他に居ないなんて思ってるくらいですから」
「ほお。お子さん、いらっしゃるんで? 指輪はされてますけど、生活感無いさかい、意外でしたわ」
「ふふ。息子どころか、最近孫が生まれましたよ」
「……はぁ!? ホンマですか!?」
「ええ」
 改めて上から下までマジマジと月影を眺め、それから「はぁ~」と一息。
「このナリで、おじいちゃん? ……あぁ、すみません、じろじろと失礼でしたね。驚きすぎてしもて……」
「いーえ。慣れてますから」
「失礼ですけど、お幾つなんですか?」
「四十三になりました」
「……はぁ……いや、でも、お孫さんが生まれるにしては、やっぱりお若いですねぇ」
「息子も二十二の時に生まれましたし、あの子も結婚が早かったんです。……妻が早くに亡くなった上に私が親としてしっかりしていなかったものですから、さっさと外に居場所を作ってしまって、知らない所で勝手に育ってしまった感じがして……少し、申し訳ないですよね」
「いや、子供なんて、親がどうしてようが勝手に育つモンですよ。むしろ、食わせてちゃんと大きくしてやったってだけで、全部の親が花丸や思いますけどね。俺は」
「……そうですね。そう言って頂けると、有り難いです」
 そこでしばし、沈黙が流れた。千尋は黙って猪口を傾け、月影は外の景色に目をやっている。
 先に口を開いたのは、月影だった。
「早くお孫さんの顔が見たいなと思った事は?」
 武蔵との事を、後悔しているわけではない。どんな答えが返ってきた所で、今更何かをやめるつもりはない。ただ、自分達の事を全く知らないこの人は、どう思っているのだろうか。聞いてみたくなった。
 せやねぇ。千尋は、間を置くように一言挟んで。
「まぁ、見たくない、言えば嘘になりますけどね。そういうのは、私らが言う事でもないでしょう。アイツは、昔っから、頑固で我が強いんですわ。誰に似たんか知らへんけどね。だからきっと、アイツなりに色々考えて、色々決めて、勝手に生きてるんや思います。それに親がどうこう口出し出来る時期なんて、もう、とおに終わってますよ」
 月影は、その言葉をしみじみと聞き、そして最後に「そうですか」と、それだけ呟いた。
「普段の武蔵君の写真、見ますか?」
 ほんのり湿っぽくなった空気を変えるかのように、軽やかな声音で月影が問いかける。すると千尋も、表情にぱっと喜色を滲ませた。
「あるんですか?」
「ええ。確か、コレに何枚か入っていたはず……」
 スマートフォンを取り出して、何度かタップし視線を巡らせる。チーム三人の写真、紬と武蔵の写真、自分と武蔵の写真、他の人物と一緒のものもある。その中から、普段の武蔵らしい、自分がいいなと思う写真を何枚か見せてみると、とても嬉しそうに画面を眺めていた。その顔を見て、月影も嬉しくなった。
「楽しそうにしてるやないの、アイツ。よお写真撮ってはりますね。武蔵と、後、このもう一人の別嬪さんも」
「武蔵君とその女性が、私の直属の部下なんです。私にとっても、二人はある意味子供みたいなものですから……可愛くて仕方ないんです」
「ふぅん。仲良さそうにして」
「口どころか手も足も出る喧嘩ばっかりしてるんですけどね」
「そうなん? アイツ、女には優しいはずやけどな……」
「うーん……説明すると長くなるんですけど……とにかく、この二人はそれでいいんです」
「ま、上司さんがそう言うんやったら、そうなんでしょうね。こちらのオニーサンは?」
「ああ、この方がうちのCEOです。……私より一つ上ですよ。もう、お兄さんて年じゃないです」
「ハァ。月影さんもせやけど、随分お若く見えますねぇ」
「ふふ。恐縮です。あ、あと、こっちの女の子は、武蔵君の後輩で……」
 なんて、二人でスマートフォンを覗き込んで話していると、鍵が開錠される音がした。程なくして、武蔵が部屋の中に顔を覗かせる。
「……何でオトンがいるん」
 二人居るのを見止めた途端、何故か少々機嫌が悪そうな表情になる武蔵。
「何でってお前……お連れさん放り出して、姐さんらとよろしくやってたんやろ? 失礼にならんように俺がお相手してたんや。感謝しぃや」
「別に頼んでへんわ。つか、それにしたって、客の部屋上がり込むってどないやねん」
「ええやろ。月影さんがそれでエエ言うたんやし。何そんなカリカリしてんねんな」
「は? してへんわ」
「ぶっ……してるやん。なぁ、月影さん?」
 本人はしていないつもりだろうが、その実隠しきれていない武蔵の威圧的な目線と口調に物怖じするでもなく、逆に笑ってからかいながら月影に同意を求める千尋。それに対して月影が苦笑した所で、割り込むようにぱんぱんと手を叩く音が。
「ほんなら、もうそれでエエわ。じゃ、俺そろそろ寝るさかい、出てってもらえますー?」
「なんや、もう寝るんかいな。三人で飲めばエエやん」
「オッサン三人で飲んで何が楽しいねん。飲むならネェちゃん居る店で飲むわ。つか俺が帰ってきたさかいホンマにもうオトン用済みやからな? 出てけや」
「えぇー……何でそないのけものにしたがるん……? ま、エエけど……」
「武蔵君、親御さんに向けてその口の利き方は……」
「あ゙?」
 何故か苛立っている様子の武蔵を窘めようとした所、月影まで牽制された。何か、凄く怖い。思わず黙り込む月影。そんな二人のやりとりに再度噴き出し、猪口と徳利を持って千尋が立ち上がる。
「ほんなら、用済みは退散しますわ」
「あっ……すみません。色々お話聞けて、楽しかったです」
「ドーモ。また何時でも聞かせたるさかいにね」
「あーもう、とっとと行けや」
 煙たげな武蔵に追い払われるような形で、千尋が部屋を出て行った。しん、と、静寂が戻って来る。
 ふん。入り口の方を眺めつつ一つ鼻を鳴らした武蔵は、何も言わずに冷蔵庫を開けてミネラルウォーターをあおり始めた。その気配が未だとげとげしく感じて、一体何がそんなに気に入らないのだろうと、月影は疑問符を浮かべるしかない。
「何か、仲居さん達と嫌な事でもあったんですか?」
 思い当たる節を問うてみる。すると、「別に」との答えが返ってきた。そして、恨みがましく月影の方へと視線を流す。
「アンタさぁ、いい加減、誰かれ構わず野郎誑し込むの止めて」
「……へっ!? えっ、今の事言ってるんですか? 武蔵君のお父さんですよ!?」
「だから言ってんの!! 知り合いのツレとはいえ、その知り合いが居もしねぇのに客室上がり込まねーよ普通! あんのジジイもやたら嬉しそうに馴れ馴れしくしやがって、ムカつくんだよ!!」
「えー……!?」
 最近は少し落ち着いていたような気がしていたのだが、相変わらず武蔵のこの、自分に対してのワケの分からない色眼鏡と独占欲は健在のようであった。というか、自分の父親にヤキモチ妬くってどういう事!? 馴れ馴れしいも何も、人の親同士話が弾んでいただけですが!?
 絶句している月影を尻目に、一つ溜息を吐いた武蔵が一旦立ち上がり、部屋の内鍵を確認して照明をトーンダウンさせてから戻って来る。そして月影の目の前に腰を下し、掌をかさねて指を絡ませて、表を寄せた。
「あのね、武蔵君の話をしていただけですよ。お父さん、本当に武蔵君の事気にかけてらっしゃって……」
「あーもう! いいんだよそういうのは! 誰であろうと話題が何であろうと、アンタが他の野郎と楽しそうにしてる事自体が俺は気に食わねぇの! 黙ってキスさせろや!」
 噛みつくような語調とは裏腹に、掠めるようなタッチで優しく唇が触れた。ぞわりと、くすぐったさに、文句も取り上げられてしまう。そのまま何度も、何度も、繰り返された。半開きの唇から互いの熱っぽい呼吸が混ざり合い、徐々に堪らない心地にさせられていく。
 口開けて。ほとんどが空気のような声音でそそのかされて、言われた通りに口を開いてしまう。すぐに舌が入り込んできて、唇は触れるか触れないかの状態を保ったまま、音を立てて捏ね回された。
 くち、くち……ちゅっ……ちゅく……
 薄暗い室内に響く水音が、何とも生々しくて、否応なしに体が熱を持っていく。擦り合わせた腿の動きを目敏く見つけられ、逆に膝を割られて腰を寄せられた。そこでようやっと、唇の粘膜が密着する。後は、深いキスに溺れるだけ。
「ぷ、ぁ……」
 それが終わった頃には、月影の瞳は蕩けていて、薄暗い中でもうるりと光を返していた。
「す、するんですか? ご実家で……」
「する」
「ぅ……」
「シたい気分になってるクセに」
「……そんなの、武蔵君のせいでしょ……」
 恨みがましい月影の言葉に、くっと喉奥で笑いを噛み殺す武蔵。そして
「……うん。俺のせい」
 嬉しそうに、そう呟いた。
 
 
 
 夜が遅かった事もあり、起きてから宿を出るまでの時間は、そう長くは残ってなかった。
 いつも通りのとりとめもない会話をしながら身支度を整えて、一晩過ごした部屋を片付ける。名残のせいで少々腰の重い月影より一足早く武蔵の用意は終わり、彼はその間、窓からの景色を眺めつつ、ぼうっと物思いに耽っていた。
「武蔵君、電車の時間もありますし、そろそろ行きましょうか」
「……ん。そうっすね」
 返された声色は、平素より幾分かしおらしかった。
 部屋を出てからは、昨日と同じようにあちこちで仲居さんに声をかけられながら玄関へ。中でも千尋と明は、それぞれの仕事を中断してまで、見送りに出て来てくれた。
「月影さん。ウチの旅館は気に入って頂けましたか?」
「ええ、勿論です。海外の顧客にも紹介したいくらいです」
「まぁ。そうですか! 光栄やわぁ。また是非遊びにいらして下さいね」
 和やかな会話の一方で、武蔵は月影の隣に立ち、神妙な面持ちで話を聞いていた。
「武蔵、何怖い顔してるんよ。もしかして、帰るの寂しなってしもたんか~?」
 そんな息子の様子に気付き、からかうように声をかける明。すぐに呆れたような笑い声がハッと打ち返す。
「そっちがやろ」
「まぁ……それはなぁ。折角やし、何ならもう一泊くらい、してきぃや」
「仕事入ってんねん。な、月影さん」
「すみません。息子さんとの時間を取らせてあげたいのは山々なのですが……」
「あー、エエてエエて。男なんて忙しくてナンボやろ。しっかり稼ぎぃや」
 久々に会った息子と別れるのは寂しいと見える明を、千尋がバッサリとした言葉で引っぺがした。
「月影さんに迷惑かけたらアカンで」
「どっちかっていうと迷惑かけられる側やから」
「たまには電話の一本でも寄越しや」
「覚えてたらな」
 別れを惜しむような会話が、その後もぽつぽつと続いた。
「じゃあ……もう行くわ」
 しかし、キリの無いそれを、いよいよ武蔵が打ち切った。息子の言葉を聞き、千尋と明も少々名残惜しげに頷く。
 スーツケースを引いて歩き出した武蔵に続く形で、月影も最後に一度会釈をし、踵を返した。
「……」
 石畳の道を、ごろごろと車輪が滑る音を聞きながら、隣を歩く横顔に視線を送る。
 武蔵は僅かばかり唇を噛みしめて、苦い表情を浮かべていた。一番大切な事を言えず仕舞いになってしまった心残りが、足取りの重さから見て取れた。
(当然だ。そう簡単に言えなくて、当然)
 今回の旅行の前に、武蔵から告げられていた事があった。
 両親にアンタを紹介する、と。
 上司ではなく、パートナーとして紹介する、と。今回の帰省はそれが目的なのだと。
 そして、月影も、その件を了承している。
『でも、アンタに迷惑はかけない。これは、俺の問題だから。俺に全部任せて欲しい』
 そう言った時の武蔵の表情は、いつになく真剣で、しかし裏側には、隠しきれない心の揺れを孕んでいた。
 いくら武蔵に一本筋が通っていたとしても、自分の人生を誰のせいにもしない潔さがあったとしても、つまらない意見をものともしない強さがあったとしても
 両親という特別な存在に対して自分たちの事を打ち明けるのは、そうたやすくはないのだろう。
(武蔵君がやりたいようにやらせてあげよう)
 月影は、武蔵が両親に打ち明けるも、打ち明けぬも、どちらでもいいと思っている。そんな事とは関係無しに、自分たちはこれから、自分たちで決めたように生きていくのだから。
 ただ、武蔵が打ち明けたい、認められずとも知っておいて欲しいと思うのなら、その意思を尊重したい。
 武蔵のタイミングを待とう。自分は余計な事は一切言わぬようにしよう。もし一緒に頭を下げて欲しいと頼まれれば、喜んで頭を下げよう。武蔵を信じて、全てを彼に任せよう。そして、その結果に何があっても、共に責を負おう。
 華菜が居なくなって冷え固まった心の、その周囲にべったりと張り付いていた鎧を無理矢理引き剥がしてくれた。諦めずに根気よく、自分と向き合って、愛情を注いで心を温めてくれたのは、他でもない武蔵だ。
 だから今度は自分が、武蔵にとことんまで付き合う番だ。
「っ!?」
 そんな風に思考の海に沈んでいると、突如、隣から手のひらを引っ手繰られた。そのまま凄い力で引っ張られ、再び旅館の方へと連行されていく。
 未だ見送ってくれていた千尋と明は、ただならぬ様子で戻ってきた息子にわずかばかり目を丸くしていた。そんな両親の前に改めて立ち、すう、と、武蔵が息を吸い込む。
「……二人に、知らせときたい事、あんねん」
 月影の手を握ったまま、端を発し
「俺……この人と結婚する」
 真っ直ぐに二人を見据えて、そう言った。
 カタカタと、繋いだ手が小刻みに震えていた。
「言いたい事、沢山あると思う。全部言うてくれてええ。でも、何言われようがもう決めたから。世間に何言われても、親に何言われても、例え縁切られても、それでもこの人とこの先ずっと一緒に生きてくって、それだけはもう決めた。そこだけは、譲られへん」
「……」
「そんでもし……一つだけ、俺から言わせて貰えるんやったら……ごめん。旅館の後も継がへん。大学も途中でやめた。盆にも暮れにもまともに顔も見せへん。おまけに、孫の顔も、見せてやられへん。……ごめん。ごめん。こんな親不孝な息子で、ほんまにごめんなさい……」
 弱弱しい声音で、語尾を震わせつつ、謝罪の言葉を繰り返す武蔵。そんな彼を眺めていると、月影の中で未だ癖のように残っている罪悪感が首を擡げそうになる。ついうっかりと、あなたの人生を奪ってしまってごめんなさいと、軽はずみに謝ってしまいたくなる。が、それをぐっと腹に力を入れる事で押し込める。
 自分が許されるための謝罪はもう要らない。そんなものは、武蔵の覚悟や勇気を前にして、もはや無粋でしかないのだ。自分も、逃げずにちゃんと傷つこう。
「あの、私からも……」
 しかし月影の言葉は、千尋が手のひらを向ける事で制された。そして言うには……
「え? お前バレてへんと思ってたん?」
 だそうだ。
 武蔵、月影の両者共に、当然ながら理解が及ばず固まった。ぷっと噴き出す明。そんな妻に向かって、千尋が呆れた風に視線を流す。
「いやだって、もう……なぁ?」
「な」
「分かりやすすぎやわ。お前が何も言わんさかい、俺らからどうこう言う事も無かったけども」
「武蔵は昔から分かりやすいさかいになぁ~」
 さもありなんという顔をしている千尋と、あっけらかんとした様子で笑う明。二人との温度差についていけず、言葉が出て来ない。
「……親に縁切られる覚悟決めたんやろ? この先起こる不都合も全部受け入れる覚悟決めたんやろ? それでも、お前、この人と一緒にいたいと思たんやろ? ……結構な事やないか。お前が、そんな覚悟が出来る男に育ってくれた事、俺は父親として誇りに思う。それだけや」
 腕を組み、武蔵と真正面から向き合って、千尋が言った。その言葉をうんうんと噛みしめるように聞き終えた明が、腿の横で固く握られていた武蔵の手を、ふわりと掬い上げる。
「あとな、武蔵。何か勘違いしてるみたいやから言うておくけど……あたしら、アンタが生まれてきてくれただけで、もう十分なんやで。それ以上なんて、なーんにも求めてない。アンタは、生まれてきてくれた時点で、十分親孝行してる。後は親の事なんて忘れて好きに生きればええの。アンタがどう生きたって、誰の事好きになったって……あたしらの大事な息子に変わりはないんやから」
 武蔵の瞳が潤み、それから唇が左右に引き結ばれた。慌てて下を向いた目元から、ぽたりと雫が零れ落ちる。「うん。おおきに」鼻声の、感謝の言葉が絞り出された。
 息子の様子を溜息混じりに眺めていた千尋が、今度は月影に向き直る。
「月影さん」
「は、はい!」
 無意識に身を固くしてしまった月影に対して、千尋はふわりと笑って見せた。
「あんた、息子さんもお孫さんもいらっしゃるんやろ? せやったら、ほら。いっぺんに孫とひ孫が出来た事になるやん。まさか生きてる間に、ひ孫の顔まで見られるようになるとは思わへんかったわ。おおきにな」
「あっ! ホンマやわ~! それに、こんっな美形の息子が出来るなんて、夢みたいやわ~! や~ん! どないしよ~!」
「ハァ……どないもせんでええねん」
「ん? 何や、嫉妬してるんか?」
「しぃひんわ今更。……ま。そういうワケで……また息子さんとお孫さんも連れて、ウチに遊びに来て下さいね。残念ながらソイツを貰ってもろうた時点で、あんたもう、嫌や言うても、私らの家族やさかいにね」
 月影にとっては、全てが、思ってもいない、願ってもいない言葉だった。
 昔から、人の目を惹く自分の容姿が嫌いだった。無意識に人を誑かしてしまう性質が疎ましかった。そのせいで傷つく事が沢山あった。意図せず誰かを傷つけてしまう事も沢山あった。時に人を狂わせてしまう事すらあった。だから、見つからないように、バレないように。自分を抑えて、人間関係の上澄みだけを舐めて、なるべく他人に踏み込まず、息を殺して生きていた。そんな自分を丸ごと笑い飛ばしてくれる妻が見つかったと思えば、その人は早々に手の届かない所へ行ってしまった。
 今回もきっと、自分は疎まれるのだろう。人一人の、ありふれた幸せを奪ったのだと。例え責められずとも、苦い顔をされるだろう。でも、もうそれでいいと腹を決めていた。全部受け入れよう。自分の性質もろとも受け入れて、その結果起きる出来事全てを飲み込んで、それでも、武蔵と共に生きようと。それが、自分が出す事の出来る、自分の人生への、最大限の許可だった。
 ……それを目の前の二人は、ひょいと飛び越えていってくれた。
「……ああ、もう、何で月影さんまで泣いてはるんよ」
 いつの間にか、月影の目の縁からは涙が零れていた。明が優しく声をかけると、さらに粒は大きくなる。ついにはくしゃくしゃに顔を歪めて泣き始めた月影の肩を、見かねた明の手のひらが撫ぜた。皺の刻まれた温かい手のひらだった。
「すみま、せん……すみません……ッ……まさか……そんな風に言って頂けるなんて、思っても、いなくて……!」
 しゃくりあげながら、つっかえつっかえに、月影が続ける。
「武蔵君と出会ってから、嬉しい事、ばかりです。幸せな事ばかりなんです……ッ。ありがとうございます。本当に、ありがとうございます……!」
 その言葉は、どうやら武蔵の琴線を酷く揺さぶったようだった。隣で驚いたように顔を上げた彼の瞳からも、いよいよ憚る事無く涙が溢れてくる。
 大の男二人でぐずぐずやっている様を前に、明と千尋が呆れかえった様子で顔を見合わせた。しかしその口元には笑みが浮かんでいて。
「ほんま、泣き虫な息子二人やわ」
 ぬくもりのある愛情が、祇園の雑踏に軽やかに溶けていった。
 
 
「親っていうモンを、ナメてたわ」
 帰りの電車の中、赤くした目元でぼんやりと流れる景色を眺めつつ、武蔵が呟いた。月影も隣で、小さく、そうですね。と。
「俺……みっともないけど、怖かったんすよ。実家帰って、オトンとオカンに会って、仲居さん達にも会って、それがすげぇ居心地良くて、楽しくて。だからこそ……あんたの事言って、もし勘当されたらって考えたら……もうここには来られへんねや。俺、この人らの家族じゃなくなってしまうんや。そう考えたら、すげぇ怖くなって、もう決めたはずの決意が揺らいで、最後まで、結局言えなくて」
 うん。月影は、何を言う訳でも無く、ただ頷いて先を促した。
「……でも……言わへんかったら……勝手に我慢して、勝手に分かってくれへんて被害者ヅラして、それであの人らの事を勝手に嫌いになってしまいそうな気がして。家族にすら、自分の好きなヤツを好きって言えない。その家族の事も嫌いになる。そうなるのだけは、嫌やなって思って」
「うん」
「で……最後の最後に、勇気振り絞ったら、アレっすよ」
「ふふっ」
 アレ、とは、千尋の発言の事だろう。あの時の面食らった心境を思い出し、月影は思わず笑いを零した。それにつられる形で武蔵も笑い、再び窓の外へと視線を投げる。
「……勇気出して、よかった」
 うん。月影はまた、頷く事で応えた。
 隣を見ると、気の抜けた表情の武蔵の横顔が、見るともなしに外に向けられている。それを眺めていると、両親に打ち明ける間際の武蔵の横顔がフラッシュバックした。唇を噛み、眉を寄せ、瞳に薄ら涙の膜を張って、強張っていた表情が。
 そして、あの時力強く自分の手を握っていた、小刻みに震える掌の温度も。
 ……果たして彼はあの瞬間、どれだけの勇気を振り絞ったのだろうか。親というものが居ない自分にとっては、もはや、推し量る事すら出来はしない。
「それに……武蔵君、カッコよかったですよ」
 気付けば、ふと湧いてきた言葉をそのまま口にしていた。目を丸くした武蔵が視線を寄越して来る。それを受けて、ニッコリと笑う月影。
「惚れ直しました」
 武蔵の表情が、驚きの中にも、隠しきれぬ喜色で彩られていく。
「……まじで?」
「ええ」
「うっそだぁ。ウソくせぇ」
「ふふふ」
「いやそこは否定しろよ!」
 もっかい言って。言いません。そんなやりとりを何度か繰り返し、くすくすとこそばゆい笑い声と共に、着地点もなく応報が終了する。
 しばし場は無言で、心地よい疲れに身を任せながら、二人は電車に揺られていた。空いている列車内の微かなざわつき、人の気配、温度。それらが心地よく五感に滑り込んで来る。
「あの……武蔵君」
 しかしある所で、おずおずとした様子で月影が武蔵を呼んだ。
 反応する形で視線を横に流した武蔵は……頬を朱に染め上げた月影の表情を目の当たりにする事となる。
「えと、私……誰かの事を、お父さんと、お母さんて、呼んだ事が無くて……その、この年になって恥ずかしいんですけど、じ、実はずっと憧れていて……。千尋さんと明さんの事を、今度そう呼んでみても、いいと思いますか……?」
 両手で顔を覆いつつ、問いかける月影。
 なんともまぁ、可愛らしく微笑ましい質問である。耳まで真っ赤にしている中々見られない様子も相まって、意地悪心が首を擡げた武蔵は、ここぞとばかりに片頬を吊り上げて笑った。
「そんなん、本人達に聞けば良かったやん」
「は、恥ずかしくて! こんなの聞けませんよぉ……!」
 さらに羞恥に悶える様子にからからと声を上げ、それから、みたび視線を流れる景色へと。
 家族皆が健康で仲良く暮らせますように。月影のあの願いの中に、自分と、そして自分の両親が入る事を考えると、中々どうして、悪く無かった。
「エエんちゃうの? ……家族なんやし」

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