干支桃源郷物語
第四話
目を覚ますと、そこはふかふかの寝床の上でした。
いつまでも浸っていたくなるような安堵感と温もりに全身がくるまれています。
ユキは睫毛を瞬かせ、すんすんと鼻を動かしました。薬草の匂いがほのかに香る落ち着く場所……ここは恐らく羊族の診療所でしょう。なんとも言えない穏やかな心地です。目覚めたばかりにも関わらず、今すぐにでも眠りの世界に誘われてしまいそう。
(紅さんは……)
「ッ、紅さん!!」
しかし頭にその名が浮かんだ瞬間、気絶する直前までの光景を思い出し、まどろんでいた意識が一気に覚醒しました。勢いよく身を起こして、きょろきょろと辺りを見回すと、薬品棚の前で目を丸くしている月影の姿がありました。
「び、びっくりした~……。良かった、気がついたんですね」
「月影さん、紅さんは!? あの後どうなったんですか!?」
寝床から身を乗り出して声を上げるユキの様子とは対照的に、月影はゆっくりと戸棚を閉め、ユキの傍に腰を下ろしました。
「落ち着いて。あの後、犬族が人間達の身柄を拘束しました。紅さんとユキ君はここに運ばれて、霊薬で治療を施しました。体、もう痛くないでしょう?」
言われてみれば、あれだけの事をされたのに、ユキの怪我はすっかり癒えていました。不老長寿の龍の角から作られる霊薬の効果です。とはいえ、たまに生え変わる紅の角が主たる原材料の希少品のため、今回のように火急の事態にのみ利用され、普段の怪我や病気で使われる事はありません。
「じゃあ紅さんは無事って事ですか?」
「ええ。随分前に気が付かれて、今はもうお屋敷に戻られていますよ」
その返答に、ユキはひとまずほっと胸を撫でおろしました。ただまだ完全に安心はできません。あんな事があった直後に、一人屋敷に戻ったというのも気がかりです。
「俺、お見舞いに行ってきます」
しかしそう言ってユキが立ち上がった途端、月影が腕を掴んできました。
「……?」
「駄目です。ユキ君はもうしばらくここに」
「……何でですか?」
「霊薬を使ったとはいえ、酷い怪我だったんです。もうしばらく安静にしていてください」
「だったら尚更です! 紅さんも誰かが見てあげなきゃだめじゃないですか!」
「紅さんは大丈夫です。ご本人から直々に、一人で居た方が休まると申し出があったので」
普段は穏やかなはずの月影の瞳の奥に、言外の圧力を感じ取りました。月影は何かを隠したがっているように見えました。この状況でそれが何かなんて、紅の事一つしかありません。
ユキの胸中に、不安が影を落とします。
「やっぱり行きます」
「駄目です」
「俺が行きたいんです!!」
「駄々をこねないっ!!」
「ッ~~~~!!」
カッと頬を高揚させたユキが素早く月影の手を振りほどき、寝床から飛び出しました。
「ちょっ……!! 紅さんが、屋敷に誰も近づけるなと!!」
「あんな事になって具合だって悪いはずなのに、屋敷に近づけるななんておかしいです!! やっぱり様子を見に行ってあげなきゃ!!」
引き止めようとする月影の声を背に、ユキは診療所を飛び出しました。
桃源郷の一番高い場所にある立派なお屋敷が紅の住処です。勾配が苦手な動物は訪れる事すら難しいのですが、ユキは病み上がりとは思えぬ身軽さでぴょんぴょんと跳ねていき、たちまち門の前へとたどり着きました。
屋敷内はしんと静まり返り、張り詰めた空気が漂っています。少なくとも今は客人を歓迎する気は無いようです。だけどその奥に隠された苦しそうな気配を感じて、ユキは恐る恐る中へと足を踏み入れました。
きし。きし。廊下が軋む音が嫌に大きく響きます。気配を頼りに、数ある部屋の一つに行き当たります。そっと襖を引いてみると、薄暗い部屋の隅で、身を隠すように蹲る紅の姿がありました。
瞬間、流れ込んできた緊迫感がユキの体を強張らせました。
「……誰だ……誰も入れんなって言いつけたはずだぞ……!!」
低く、唸るような声が地を這います。肩で息をしながらぎろりとねめつけてくる余裕のない視線は、まさに手負いの獣そのものです。ユキは咄嗟に両手を上げ、精一杯無害をアピールしました。
「ちっ、違います! 危険なヤツじゃありません! たまに紅さんに構って貰ってるウサギです……! 今回もたまたまあの場に居合わせて……その、とにかく紅さんが心配でっ……!!」
確かに外傷こそ消えているにせよ、想像していた以上に苦しそうな様子です。こんな状態なのに、何故治療もそこそこに一人で耐えているのでしょうか。
「あんな事があった直後に、一人で居るのは危険です! 具合だってまだ全然よくなさそうだし、俺に何かお手伝い出来る事があれば……ッ!?」
言葉は最後まで紡がれませんでした。紅が突如としてユキに飛び掛かったからです。
肉食獣のような獰猛さをもった瞳に真上から射抜かれます。牙をむいた口からは獣じみた呼吸音、そして鋭利に形を変えた爪がぎちぎちと腕に食い込み、血を滲ませます。
喉奥で唸りながら、肩口に牙が突き立てられました。あと一歩で肉を喰い破りそうな力加減で何とか自制しているといった様子です。痛みと共に、紅の喉奥から焼けこげんばかりの高熱の呼気を感じて、ユキの体は恐怖に凍り付いて動かなくなりました。
(あ……おれ、殺され……!)
本能的に死を覚悟して、瞼をぎゅっと瞑った所で……しかし紅は、乱暴にユキを解放しました。
「今俺は最ッ高に機嫌が悪ィんだッ!! 今のでよく分かったよなぁッ!? 分かったら失せろ!! これ以上ここに居るなら今度こそ殺すぞこの草食がッ!!」
そう吐き捨てて、足音も荒く屋敷のさらに奥へと消えていきます。いえ、そうしたかったようです。ですが途中で足取りがおぼつかなくなり、身体がふらつき、結局はがくりとその場に崩れ落ちてしまいました。
「ああ、もう、くそっ……!!」
紅が、忌々し気に自らの体を掻き抱きます。
(どうしよう、どうしよう……怖い……でも……!)
今しがたの恐怖が尾を引き、ユキの手はカタカタと震えていました。でもどうしてもこのまま、はいそうですかとこの場を去る事が出来ません。だって紅は口では出て行けと言いつつも、一方で助けを求めているようにも見えました。それに何より、こんなに辛そうな様子の想い人を捨てて逃げられる程、男として不能になりたくはありません。
「紅、さん。辛いんですか……?」
恐る恐るユキが手を伸ばすと、びくりと肩が強張ります。紅は荒く呼吸を繰り返したまま、もう何も言いません。先程の威嚇が、今張れる精一杯の虚勢だったのでしょう。狂暴さは感じず、代わりにくらりと思考を鈍らせる、得も言われぬ甘い香りが漂ってきます。
絹糸のような髪の隙間から覗くうなじは艶めかしく、玉唇は赤く濡れ光り、長い睫毛が上気した頬に幽かな影を落としていて……。その艶然とした様は、何よりも雄弁に、紅の体が今何を欲しているのかをユキに伝えてきました。
「……俺、今紅さんがどう辛いのか、分かった気がします……」
ユキはその詳細まで知る由もありませんが、あの縄に戒められたまま人間の性欲に弄ばれた熱が、暴走しているのです。
「俺が……お慰め出来れば……」
「駄目だッ!!」
ユキの提案を鋭く一蹴する紅。ふー。ふー。苦しそうな呼吸音が口角から溢れています。
「自分の事は自分が一番よく分かってる……今誰かに相手なんかさせたら、絶対歯止めがきかずにヤり殺しちまう……!! 頼むから……頼むから、一人にしてくれ……!!」
自分一人だけでは処理しきれず、かといって他人にも頼る事が出来ず、ただ熱に浮かされながらじっと耐えるしか出来なくなっている紅を見て、ぎゅっと胸が締め付けられました。さっきの威嚇も結局は、ユキを傷つけないためにやった事。紅はやっぱり本当は凄く優しい龍なのです。きっとユキが全てを把握しきれていないだけで、彼が存在しているおかげで、この桃源郷は沢山の事から守られているのです。
普段は誰よりも力があって格好良くて、飄々としながらもこの桃源郷を支える柱になってくれているこの人を、弱い自分でも助けたい。力になりたい。支えたい。
「大丈夫です」
ユキが、かたく握られている紅の手のひらを絡め取り、身体を支えながらそっとその場に押し倒します。
「俺……皆より弱くて何も出来ないけど……ウサギなんで、コッチの持久力なら他の誰にも負けない自信あります!」
自慢になるようなならないような、イマイチ恰好がつかない宣言を聞き、紅は唖然として目を瞬かせました。だけどその瞳は真っ直ぐで真剣そのもので、冗談を言っているようにも、ただちょっかいを掛けたいだけにも見えません。
体中を渦巻く熱が、他人の体温を欲しています。本当は、もう一分一秒だって理性を繋ぎ止めていたくはないのです。
「……お前がここに来たのが悪ぃんだぞ」
「はい。分かってます」
「俺は止めたからな!!」
「分かってます。俺が勝手に紅さんの役に立ちたいんです」
紅は一度大きく息を吐き、観念したように瞼を伏せました。それから弱弱しく、ユキの首に腕を縋らせました。
「……たすけて……」
耳元で絞り出される掠れた声。素直に助けを求めてくれた心からの本音が、不謹慎ですが、どうしようもなく愛おしく思えました。