小説

もっと触って、大好きだから。

letm_official

軋む心

 ぬるめのお湯を張ったお風呂に、数滴のラベンダーオイルを垂らす。足先からゆっくりと体を沈めていけば、じんわりと沁み込んでくる温もりとお気に入りの香りに、寒さで強張った体がほどけていくようだった。
 ふう。溜息を吐いて心地よさを噛み締めてから、妃は長い睫毛をうっすらと持ち上げた。湯気で曇った浴室が、自分自身の心のようだった。
(……今日も何も無かった……)
 湯船の中でそっと膝を抱くと、水面が小さく音を立てる。空との別れ際の一連のやりとりが、妃の脳内をぐるぐると巡っていた。
(空君……私の事どう思ってるんだろう……)
 互いに気持ちを確かめ合った。それは紛れもない事実である。メンバーとしても毎日楽しく過ごせているし、一緒に出掛ける時間も取ってくれている。だけど、妃が思い悩んでいるのはそのもう一歩先の段階の話だった。
 晴れて恋人同士になったはずなのに、二人の関係性が以前とほとんど変わらないのだ。とりとめもない話をして、一緒にご飯を食べて、会えない日には電話をしたりして、そこでお互いに好きだよって言ってむず痒い気持ちになったりして……。でもそれだけ。唯一、ライブのパフォーマンスでも何でもないプライベートで手を繋いだりハグをするようになったのが、変化といえば変化だろうか。
 だけど付き合い始めて二か月が過ぎた今になってもまだ、キスも、もちろんその先にも、進んでいない。
(大事にしてくれてるからなのか……)
 子供の頃からの付き合いだ。空の性格は妃もよく分かっている。優しくて、気遣いが出来て、誠実で、恋人同士になったからといってすぐに求めてこないのも空らしい。自分はそういう所にも惹かれたし、何より今の関係になってからというもの、空は自分に対して前よりもっと優しくなった。二人で過ごす時間なんて、それこそ宝石みたいに、守るべきお姫様みたいに扱ってくれる。大切にされているのだという事は一挙手一投足から伝わってくる。ただ……
(それとも……好きだけど、そういう気持ちになるかは別、とか……?)
 だけど、不意に手を繋ごうとした瞬間に少しだけ空の指先が強張るのを感じたり、いい雰囲気の時に顔を近づけてみるとそれとなくかわされたり、しかも一度や二度の話ではない。今日だって勇気を振り絞って部屋に呼んだのに、優しさらしき物ではぐらかされて、何かを誤魔化された気分になった。
(……ほんとに私の事、好きなのかなぁ……?)
 幸せだ。楽しいはずだ。だけど胸の中に膨らみ続けるしこりがある。
 自分はもっと仲を深めたいのに、好きだからこそ触れて欲しいと思うのに、空はそうは思わないのだろうか。自分の考え方がおかしいのだろうか。一般的に若い男子が持ち合わせている性急さを、全く向けてくる事がない恋人に対して、不安が募っていく。
 もしかしたら、実は気持ちが冷めているのではないか。恋人関係になってはみたものの、違和感を覚え始めて、でも空の優しさゆえに、関係を解消する事が出来ないのではないだろうか……?
 風呂場に持ち込んだスマートフォンを手に取って、空とのメッセージアプリのやりとり画面を開く。しばし指をさ迷わせてから、頭に浮かんだ気持ちをそのまま打ち込んでみる。
『私の事どう思ってる?』『本当に好きでいてくれてる?』『何でもっと一緒に居てくれなかったの?』『気持ちが分からなくて不安だよ』あれこれ書いては消して書いては消して、でもどれも鬱陶しい。重たい。面倒くさい。かまってちゃん女の典型のように思えてくる。結局画面には、空白のテキストボックスだけが残った。
 そのまましばし何を打ち込むわけでもなく、画面を開いたままぼんやりと視線を落としていた。だが堂々巡りの思考を打ち破るように、突如として通知音が反響した。驚いて顔を上げると、他でもない空からの新着メッセージが届いていた。
『今日は妃ちゃんと一緒に晩御飯食べられて楽しかった!明日も頑張ろうね!』
 一月も前であれば、うっかり頬を綻ばせながら、いそいそと返信を打ち込む所だった。だけど今はそんな気分になれなくて、お気に入りのスタンプを一つ返すだけで画面を伏せた。
「楽しかった。だけなの……?」
 妃には、この関係につける名前と、空の気持ちが、分からなくなり始めていた。
 
 
 翌日もまた、新曲リリースに向けての全体練習が行われた。
 この日のメインはダンスの振り覚えで、先生のレッスンが終わった後、空、明歌音、妃の三人がそのまま自主練に残っていた。ルークは別の仕事のため場を後にしている。
「はい、わん、つー、すりー、ふぉー、ぐるっと、タンタンタン!」
 本人達だけに伝わる明歌音の掛け声に従って、空と明歌音の二人がフォーメーション練習を行っている。そして妃は現在、少し離れた位置で休憩を取りながら二人を眺めていた。空はメンバー一フィジカルが強いし、明歌音は華奢な体なのにエネルギーが有り余っている。ダンスは出来るものの基本的に運動音痴のケがある妃は、さすがに二人と同じペースで練習をこなすのは難しかった。代わりに二人をじっと見つめて、その中で動く自分の姿をイメージする。
「あれ~? 空なんかまた背伸びた~?」
 そんな中、互いの動きが一段落したタイミングで、藪から棒に明歌音が空を見上げて問いかけた。空は新しい振りを覚える事で頭がいっぱいだったらしく、一瞬のタイムラグの後に言葉の意味を理解して首をかしげる。
「え、どうなんだろう? 最近測ってないから分かんないけど……」
「え~これ絶対伸びてるよ! もう今頃すくすく大きくなって~! 明歌音ちゃんの許可なく大きくなるなんて許しませんからねっ!」
 子供の頃に発育が遅かった分、空は大学生になった今でもまだ身長が伸び続けている。そして明歌音はといえば、メンバー内で唯一自分より身長が低かった空に抜かされたのが悔しいらしく、たびたびその事実にふざけ半分突っかかっている。悪ガキめいた笑顔で空の背中に飛びついて、そのまま子供がおんぶをせがむような形でぐいぐいと体重を乗せ始めた。
「もう明歌音やめてよ! やめてってばぁ!」
「よいではないか、よいではないか~」
 密着する二人の体と、よく響く明歌音の笑い声。そして、文句を言いながらも無理に払いのけようとはしない空。そんな光景を見ていると……突如、妃の心がぎしりと音を立てた。
 自分よりも明歌音の方が、よっぽど空と仲が良くて自然体で、互いを信頼しているように見えてしまったからだ。
(どうして)
 ズキン、ズキン、鈍い痛みが心臓の裏側をたたく。
 腹の底に閉じ込めていた物が崩壊し、溢れ出して、みるみるうちに心を醜く満たしていく。
(どうして……)
 明歌音ちゃんとはあんなに楽しそうに、何の抵抗もなくじゃれ合っているのに。
 何で私とは手を繋ぐのも躊躇する時があるんだろう。何でキスしてくれないんだろう。何でもっと触れてくれないんだろう。
 何で、何で、何で……。
 ガタンッ!! 乱暴な音を立てて立ち上がった妃に、空と明歌音が目を丸くする。
「……空君は、私の事、嫌いなんだね」
「……へっ?」
 妃の目からは涙が零れていた。言っちゃダメだ。空の話を聞いたわけでもないのに自分の中だけで思いつめて、勝手に決めつけて、こんな子供みたいで、嫉妬丸出しで、いらだちをぶつけるような事、言っちゃダメなのに。
「私の事嫌いだから、明歌音ちゃんとはそんな風にべたべたするけど、私には何もしてくれなくて……私に魅力がないならそう言ってよ!! 私に触りたくないならそう言って!! 付き合って何か違うなって思ったんだったら、義理で一緒にいなくていい!! もういい!! 空君の事なんか嫌い!! 大っ嫌い!!」
 嫌いだなんて思ってないのに。今まで飲み込んでいたものが溢れて止まらなくて、激情に任せて心にもない事を言ってしまって、はっとした時にはもう遅かった。
 二人の顔を見る事ができず、妃は逃げるように部屋を飛び出していった。背中に自分を呼ぶ声が聞こえたが、立ち止まる事が出来なかった。

 
 ぐちゃぐちゃになった感情を抱えて、自分が吐き出してしまった言葉から逃げるように走って、どこをどう通ったかもよく分からないうちに、気づけば事務所内の空き会議室でうずくまっていた。
(あんな事言いたかったわけじゃないのに……!)
 涙があふれて止まらない。ぐずぐずと鼻をすする音が、静かな部屋に響いている。
 何故あんな事を言ってしまったんだろうか。そもそも明歌音は空に限らず誰に対しても距離が近い。それに空と明歌音は昔から姉弟のように仲が良くて、そこには男女として特別な感情が無い事なんて、妃にだってよく分かっている。ただ……今はそれが嫌だった。見ていると心がざわついて仕方なかった。自分とは手を繋ぐのすら躊躇する事がある空が、何てことない顔で明歌音からのスキンシップを受けている光景が、どうしても許せなかった。
(最低だ……自分の言いたい事だけ言って、空君にも、明歌音ちゃんにも、嫌な思いさせた……)
 だけどそんなの全て妃の心の中だけで起きた事であって、二人からしてみれば、何の脈絡もなく突然妃が怒鳴って出て行った状況でしかないだろう。
(戻らなきゃ……。二人に謝らなきゃ、なのに……)
 すぐに戻って謝った方がいい。頭ではそう理解しているのに、心も体も鉛のように重くて持ち上がってくれない。静かで暗い部屋に一人で縮こまっていると、思考がどんどんネガティブな方向に転がり落ちていく。
(……嫌われた、よね。今回の事で、本当に)
 そもそも空が関係を進めたがらなかった理由は分からない。自分の事を大切にしてくれていたのかもしれないし、単に空のペースと自分のペースが食い違っていただけかもしれないし、本当に「付き合ってみたら少し違った」という気持ちになっていたのかもしれない。
 だけどそこにどんな理由があったとしても、自分なら、今の自分のような女はお断りだ。いきなり被害者ヅラしてヒステリックに怒って逃げ出すような痛い女。それこそ嫌われたって文句は言えないと思った。
(ほんとに好きな人と付き合うって……もっと楽しいのかと思ってたな……)
 自身の膝に顔を埋めると、視界が真っ黒に染まった。
 想いが通じ合ったその時は、本当に嬉しかったし幸せだった。
 だけどいざ新しい関係が始まってみると、連絡が遅いと不安になったり、他の女の子と楽しそうにしていると嫉妬したり、相手が自分の事を本当に好きなのか確かめたくなってしまう。気になる事があっても嫌われるのが怖くて言葉を飲み込んだり、わがままだと思われたくなくて要望が伝えられなかったり……。好きの分だけ、思い悩む事が多いのだと気づかされた。
 空とは子供の頃からの付き合いで、さらに同じグループのメンバー。好意を抱いたとしてもわざわざ均衡を崩す気にはなれなくて、片思いが長引く中で他の異性に目を向けた事もある。ただその時はこんな気持ちにはならなくて、連絡が来れば当たり障りなく返して、なんとなく相手が求めているであろう言葉を口にして、一般的に恋人同士ですべき事をして……。そしていつしか関係が終わっていったけれど、その時の感情すらも、どこか他人事だった。
 あの時の自分は、本当の恋をしていなかったのだ。
(私……恋愛、向いてないのかなぁ……)
 挙句の果てにそんな極論にまで思考が支配され、さらなる自己嫌悪の渦に飲み込まれる。このまま消えてしまいたい。こんなに心がままならなくなるならもういっそ、この関係すらも終わらせてしまいたいと思った。
 そんな風にしばし鬱々とした思考を抱えて沈み込んでいると、廊下の奥から慌ただしく足音が聞こえてきた。誰かを探すような声と共に、手近な部屋のドアを片っ端から開けては閉めて、どんどんこちらへ向かってくる気配がある。
「妃ちゃ……!」
 妃が居る部屋の扉が開き、廊下から差し込む光と共に空が上半身を覗かせた。部屋に入ってすぐの壁際に蹲っている妃と目が合った瞬間、焦燥感を滲ませていた彼の表情が一気に和らいだのが見て取れた。
「……良かったぁ~~~!」
 力が抜けた様子で妃の前にしゃがみ込む空。そのまま縋り付くように背中に腕が回ってきて、突然の事に驚く間もなく抱き寄せられる。
「スマホ鳴らしても反応ないし、最悪もし事故とかあったらって考えちゃって……! でも事務所の中に居てくれて良かったよぉ……!!」
 顔の横から聞こえる情けない声と、大きな安堵の溜息。妃も一息遅れて状況を飲み込み始めた。
「し……心配、してくれてたの……? あんな、ひどい事言ったのに……」
「当たり前じゃん! それに酷い事なんて言ってない! むしろ俺、妃ちゃんともっとちゃんと話さなきゃって思った!」
 そう言うと空は一度妃から体を離し、二人は間近で向き合う形となる。
「まず確認なんだけど……俺の事、ほんとに嫌いになっちゃった? もしほんとに嫌われたんだったら……それは、妃ちゃんの気持ちを尊重しないとなって思ってる」
 寂しそうな顔で問われ、妃は慌てて首を横に振った。さっきまで関係すら終わらせたいと思っていたはずなのに、空の顔を見た瞬間そんな上澄みだけの気持ちは崩れ落ち、柔らかい本音が溢れ出してきた。
「嫌いになってない……! ほんとは好きなのに、あんな事言ってごめんなさい……!」
「……うん……良かった……。俺も妃ちゃんの事大好きなのに、誤解させるような事ばっかりしてた。ごめんなさい」
 その言葉を聞いた途端、一度引いたはずの涙がまた溢れてくる。空はそれを止めようとはせず、ただトントンと肩を擦ってくれた。
「この後ね、俺の家か妃ちゃんの家でゆっくり話したい。ほら。ここだとちょっと、誰かに聞かれちゃうかもしれないし……何より寒いしさ」
 指先に空の温かい手のひらが触れて、そこで妃は初めて、自分が小さく震えている事に気づいた。暖房の効いていない部屋にうずくまっていた事に加えて、思い詰めていたせいで血の気が引いて、いつの間にか体が冷え切っていたのだ。
「……空君の家、行きたい……」
 妃自身も気づかなかったような体の変化を察してくれて、その気配りにさらに涙が大粒になる。
「ごめんなさい……空君も、明歌音ちゃんもぉ……っ……傷つけるような事、言っちゃって、私、一人で勝手に、バカみたいでぇ……!」
「もういいよ~! 明歌音には明日謝れば大丈夫だって。ほら行こ。泣いてるの誰かに見られたらさ、仕事で喧嘩した事にしとこ。ね?」
 胸に顔を埋めて泣き出した妃を支えながら立ち上がる空。罪悪感とホッとした気持ちがない交ぜになって力が抜けた妃は、空に縋りついたまま離れられなくなってしまった。だけどすれ違った社員さんが何か言いたそうに視線をよこしたり、実際声をかけてくる度に「新曲の事で言い合いになって」「妃ちゃん泣かせちゃいました。ごめんなさい」と、空がかばってくれて、少しでも彼の事を悪者にした自分が恥ずかしくなった。
 自分の中だけで勝手に悩んで、勝手に嫌われた事にして、勝手に悪い思考のジェットコースターに乗っかって、結局自分は一人芝居をしていただけだった。エゴの声に踊らされて、空の優しさに甘えていただけだったのだ。

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