小説

それでも生きていく Ver.月影

letm_official

 物好きだよなぁ、と、熱心な様子で自分にキスを落とす顔を眺める。
 若い頃はそれなりに需要もあったのかもしれないが、こちとらもう四十を数える年齢だ。対して向こうはまだ二十代。一回りも下。結婚適齢期も真っ只中だし、女にモテる。何よりストレートに女が好きであったはずなのだ。こんな年増、しかも男に、「そういう意味」では本来構うはずもない人間だった。
「……おい、ずっと見てたのかよ」
 薄目を開いていた視線を感じたのだろう。持ち上がった瞼の下から覗いた瞳と目が合うと共に、鬱陶し気な声色が耳に滑り込んだ。これだけ間近で眺めているというのに、目の色から不機嫌さが伝わるのが面白い。思わず目元を緩めてしまうと、舌打ちの後に手のひらが覆い被さってきた。
「見ンな」
 光の遮られた視界の中で、再度、柔らかな温度が重なった。
 
 息子に生かされ、惨めったらしく年を重ねるうち、人間とはどう足掻いても一人では生きていけないものらしく、自分の周りには、意味のあるものが増えていた。
 その中でも殊勝なのが、武蔵だ。
 昔からどうも金持ちに好かれる才能があるらしい自分は、武蔵が入社してきた当時から既にエグゼクティブ層の顧客を多く抱えていた。当然その分入って来る金額も多くなるため、色んな人間から部下にして欲しいとせがまれる事も多かった。だから武蔵に「アンタと一緒に仕事がしたいです」と初めて言われた時は「ああ、またか」と、その程度にしか感じなかった。
「光栄です。ありがとうございます」いつも通りの社交辞令でお茶を濁し、その場は終わった。
 ただ、武蔵はその日から、何度も何度も、それこそ毎日のように、部下にしてくれとアプローチしてきた。申し訳ありません。無理です。私の一存で決められる事ではありません。いや、むしろしつこいです。金輪際止めて下さい。迷惑です。と、散々邪険に扱ってあからさまに避けても尚、次の日には「アンタと仕事させて下さい! お願いします!」と、待ち伏せまでして頭を下げてきて、自分をげんなりさせた。最終的にはその熱量に押し負けて、直属の部下にしたのが、そもそもの始まり。
 最初、武蔵から自分に向けられていたのは、一切色を孕む事の無い純然たる憧れだった。自分の何がそんなにいいのかは分からなかったが、「月影さん、月影さん」と雛の如くコロコロ懐いてきてくれて、しかも「月影さんカッケェ」なんて無邪気に言ってくる武蔵は、ただただ可愛らしかった。男に「そういう意味」でウケる事はあれど、純粋に男として惚れられる事など稀だったので尚更だ。
 それでも、上司部下の関係が密になりやすいこの仕事。武蔵とも随分と気の置けない関係になってきた頃、ひょんな事から自分の悪癖が知られてしまい、それが真面目で律儀なあの男のお怒りに触れた。
「そんなに男と寝てぇなら俺がやる」「だからどこの馬の骨とも知らないヤツと寝るのはもう止めろ」「俺の憧れの人を、どうでもいいようなヤツが好きにしてるのが許せねぇんだよ!!」久々に、部下にしてくれと頼み込んできたあの時のような熱量を向けられて、結局その時も首を縦に振ってしまった。
 自分に対しての憧れと熱量が、ヘンな方向に取り違えられ始めたのは、間違いなくその頃からだ。ただのセックスフレンドだった関係が、徐々に恋人のようなものに移行していき、そして、今に至る。
 
「月影さん、すき」
 体内に詰め込まれた質量に息を弾ませている所に、そっと声が降って来る。薄っすら目を開くと、切なげに愛を囁く武蔵の表情があった。
 少々目つきが鋭く、物言いもハッキリしていて荒い部分があり、そのせいで初対面の人間には一歩引かれる事もある武蔵だが、彼は自分なんかよりずっと心根が優しく、愛情深い人間だ。純粋で、穢れが無くて、潔くて、真っ直ぐな……ああ、見ていられない。
 そんなものを向けないで欲しい。心の中の、ずっと大事に守り続けている何か。自分でもそれが何なのか、もはやよく分からなくなってしまっているその何かに、ヒビを入れられるような心地がするから。
「好き」
 ぴしりと、心の中で音が鳴る。そうやって出来たほんの僅かな隙間から、じんわりと温もりが染み入ってくる。
「大好き……」
 優しくて、少し掠れていて、何故か少し寂しそうな声。だめだ。だめだ。これ以上入ってこないでほしい。体は内臓の奥深くまで暴かれているというのに、心に空いた隙間だけは必死に塗り固めて、崩れかけた壁を補強する。
 そうしていると、何故だろう。泣きそうな程、胸が締め付けられた。
 
 
 
 武蔵と関係を持ち、愛情を与えられる程に揺れ動く自分自身から頑なに目を背け、そして、その心の痛みが徐々に麻痺し始めた頃の事だ。
 武蔵の様子が変わった。
 仕事が終わればさっさと後片付けを終わらせて即帰宅し、始業も遅刻ギリギリで出社してくる事がある。長引く仕事の最中には、合間を見てどこかに電話をかけていたり、ソワソワとスマートフォンをチェックしたりもしている。
 当然月影の家に訪ねてくる事もなく、武蔵に家に来いと招かれる事もなく、ただ昼食の弁当だけは、相変わらず紬と交代で律儀に作ってきてくれるのだが、これに関しては、ずっと前からそうだった。
 つまる所、そう、二人の関係が以前のような状態に戻ったというのが正しいのかもしれない。その、武蔵のプライベートを忙しくしている何らかの事情で。
(……彼女、だろうな)
 女の勘ではないが、これだけ分かりやすければ男でも勘付く。理人も「今度の女はいつまで続くだろうな~」なんて冗談交じりに話のネタにしていたし、他の人間から見てもそうなのだろう。それに武蔵も、最近は忙しそうながらどこか楽しそうでもあった。
 帰宅してすぐに自室に上がり込み、空調をつけてソファに腰を沈めた。そして、ネクタイを解いて行く。
 心の隅が、チリチリ痛む。
 素直に喜べない自分が嫌になる。
(もっと早く飽きてくれれば、もう少し楽だったのに)
 自分は華菜が死んでから、惚れた腫れたを徹底的に排除してきた。
 失うのが怖いのだ。大切な人との別れは思った以上にダメージが大きくて、傷の治りは遅いなんてものじゃない。この年になって今更、そんなにエネルギーを使う事に耐えられる気がしない。だから自分に向けられる純粋な恋心からは目を逸らして、かわして、狡賢い事にたまに利用したりもして、なるべく深入りしないようにしていた。
(……武蔵君が悪い)
 それなのにあの男ときたら、月影の意向は関係ないとばかりにずかずか上がり込んできて、事あるごとに好きだの愛してるだのと、四十を過ぎた男に奇特な事をさらりと言い放ち、そして、愛おしくてたまらないといった顔でセックスをするのだ。
 そんな、期待を煽るような事をしないで欲しかった。しつこく口説き落とさないで欲しかった。
 そうすれば、セックスフレンドに彼女が出来たという、ただそれだけの事で終われたのに。
(すぐに私の言う事を聞かなかった、武蔵君が悪い)
 男で、しかも年増なんて、将来性も何もあったものじゃないから、若くて可愛い女の子からパートナーでも見つけなさいね。幾度となくそう言ってきた。それでもその度に「うるさい」だの「そんなもん俺がやりたいようにする」だの口ごたえしては、「アンタは黙って愛されてろ」の一点張り。
 そのうちに忠告するのがバカバカしく面倒臭くなってきて、まぁ、飽きるまではこのままでもいいか、なんて受け入れて、段々と居心地の良さを感じ始めて、隣に居るのが当たり前にすらなっていった。
 ……それがいけなかった。
 どうせ飽きる事だったのであれば、もっとサラリと、処理感覚のセックスだけで終わってくれれば、それで良かったのだ。
 離れていくのに、心まで、持っていかないで欲しかった。

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