小説

それでも生きていく Ver.月影

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「月影さん」
 事務処理仕事も終わり、帰宅の準備を進めていた所、紬から声が掛けられた。ちなみに武蔵はといえば、ここ最近の通例に従って、仕事が終わるや否や挨拶もおざなりに帰ってしまっている。
「お疲れ様です」
「はい。お疲れ様です」
 わざわざ面と向かって、律儀に終業の挨拶をしに来たのだろうか。若干の違和感を覚えながらも、月影はにこりと笑って返事をした。だがそれが済んでも、紬は一向に動こうとしない。じいっと月影の表情を、観察するように眺めている。
「……あの、何か……」
「月影さん、何か困ってますよね?」
 居心地が悪くなり、一体何だと口を開きかけた所で、真顔のままに問い掛けられる。
 ここの所、少なからず上の空であった自覚はある。やましい事があるだけに、心がきゅっと縮まった。だがそんな動揺は腹の中に押し込めて、いつも通りの表情で小首を傾げて見せる。
「いえ、何も。そんな風に見えましたか?」
「はい」
「……クライアントとのトラブルもありませんし、武蔵君も紬さんも、とてもよくやってくれていますよ。これといって、困りごとは……」
「そうじゃないです」
 適当な言葉で場を収めようとしたが、ぴしゃりと硬質な声色で遮られる。
 相変わらず紬は、鋭くすら思える目線をもって、コチラを刺し貫いてくる。何もかも見透かされてしまいそうだ。自分の中にある、醜さも、執着も、大人げなさも、嘘も、何もかも。
 どろどろとした心の内を抱えながら受け止め続けるには、あまりに真っ直ぐすぎる目の色に、思わず目線を逸らしてしまう。すると、紬は小さな溜息を一つ零した。とても、寂しそうな音がした。
「……信じてないから、腹を割って話せない。信じてないから、些細な意見のぶつけ合いも出来ない。……あたしが月影さんの直属になって間もない頃、月影さんは何も言わないアタシにそう言いました」
「……」
「それなのに月影さんは、アタシの事は、信じてくれないんですね」
「そういう、ワケでは……本当に何も……」
 違う、そういう事ではないのだ。聞き捨てならない言葉で問い詰められて、再び顔を上げる。そこで、声が出なくなった。
 紬は、今にも泣き出しそうな程瞳を潤ませて、口をきゅっと引き結んでいた。下瞼の縁に溜まった大きな雫が、月影と目を合わせた後一瞬のタイムラグを挟んで、耐え切れない様子で零れ落ちる。
「っ……」
 やはり男という生き物は、どう足掻いても女に泣かれると弱いものなのだ。掻き乱された心を何とか落ち着かせようと、一度、大きく溜息を吐く。
 違う。紬を信頼していないワケではない。いっそ口にしてしまえたら、どんなに楽だろうと思う。たがこれは、自分の一存で誰彼構わず言える事ではない。相手が居る問題だ。そんな風に葛藤していると、指で涙を払った紬が、再び口を開いた。
「ここからは、あくまで私の勘になるんですけど」
 そう前置いてから
「武蔵も関係ありますよね」
 ずばり核心を突いてくる。
「アタシ、月影さんに何を言われても、それでもきっと月影さんの事が大好きです。武蔵の事なんて、あんなヤツ、元々大嫌いなんで、何がどうなってもこれ以上嫌いになりようがありません」
「……」
「月影さん。アタシの目を見て」
 涙の膜が張った双眸が、真っ直ぐ、揺らぎなく、こちらへと向けられている。真摯な彼女の優しさが、そこに宿っているような気がした。
「絶対大丈夫だから」
 その言葉を皮切りに、月影の脳内に、今までチーム三人で歩んできた道のりがフラッシュバックした。
 緊張した面持ちで自分のチームに入ってきた時の紬の表情。仕事が上手くいかずにヒッソリと涙を流していた姿。武蔵と紬が楽しそうに喧嘩をしている風景。自分のために毎日弁当を作って来て当然のように渡してくれた。時にぶつかりながら仕事の進め方を議論した時もあった。三人して疲労困憊になりながらそれでもハードな仕事をやり遂げたあの瞬間もあった。腕時計を並べて時刻を確認した回数は、もう数えきれない。
 息子に生かされ、みじめったらしく年を重ねるうちに、自分の周りには意味のあるものが増えていた。その瞬間瞬間に大きな意味は無かったとしても、それが積み重なり、道になり、振り返れば、沢山の足跡がついていた。
 華菜が居なくなったあの瞬間、全て終わったような気がした。この先にはもう何も無い。後は影縫をちゃんと育てよう。一人前にしてあげるまではせめて生きよう。そう思っていた。それでも。
 厭世的でも、惰性で生きていても、何もかもを諦めていても、それでも生きている限り、道は出来ていた。
(ああ)
 こんなはずじゃあ、無かったのに。
「……ここでは、何ですから……場所を変えて……」
 
 
 
 二人が選んだのは、間仕切りが多く、半個室になっているような喫茶店だ。
 そこで月影は、武蔵との事を全て話した。セックスフレンドから始まって、今は恋人と呼んで差し支えないような関係である事。ここの所武蔵の態度が変わった事。自分がそれを気に病んでしまっている事……。
 紬は、先を急かす事無く、余計な口を挟む事も無く、ただ黙って、ときたま頷きながら、月影の話を聞いていた。
「……月影さんを武蔵に取られたのは、正直すっごい面白くないです」
 そして全て聞き終わり、開口一番、そう言った。それを皮切りに、今まで何も言わず話を聞いていた大人しい様子とは一転。テーブルに手のひらを叩きつけ、握りこぶしを作りながら、鼻息も荒く月影の方へと身を乗り出す。
「でもそれ以上に、月影さんを悲しませるなんてあのド畜生許せません!! 張り込みましょう!!」
「へっ?」
「張り込んで、決定的な浮気の証拠を突き止めるんですっ!!」
「あ、あの、そんな大げさなものでも……」
「大袈裟です!! 月影さんを軽く扱うなんて許せません!! そんなヤツに月影さんは相応しくない!! バーンと浮気の証拠を突き付けて、誠心誠意謝らせて、その後はアタシが法律捻じ曲げてでも月影さんを娶ります! 旦那と娘もろとも幸せにして見せます!! そうと決まれば早速行動しましょう!! フハハハハ!! 武蔵アンチクショウが!! せいぜい首洗って待ってるんだなぁ!! アタシを敵に回した事、この先一生後悔させてやるわぁッ!!!」
「……」
 悪の親玉みたいな表情で、イキイキとこの先の人生のプランニングをする紬の様子を見ていると、何だか、自分の中で抱えていた諸々が全て馬鹿らしく思えてきてしまう。言葉を聞くうちに、強張っていた月影の表情が段々と和らぎ、口元が緩み、最後にはぷっと、笑いを零してしまった。それを見て紬もまた、嬉しそうに笑ったのだった。
 
 だが
 
「つ、紬さん……これ、本当に大丈夫なんですか? 何か不安でしょうがないんですけど……」
「大丈夫です。眼鏡かけて髪型変えれば大抵は誤魔化せるって、どっかで誰かが言ってたのを聞いた気がします」
「情報源があやふやすぎますし、私に至っては老眼鏡もかけるので事実髪型しか変わってませんけど? しかもよりによってオールバックって、顔が全く隠せてませんよね?」
「大丈夫です。月影さんクラスの見た目になるとぶっちゃけ何しても目立っちゃうんで、結局気合の問題なんです」
「じゃあいつも通りで良かったんじゃないですかね!?」
 二人は今現在、武蔵のマンションが見える位置の植え込みに身を潜めている。閑静な住宅街でこそこそする二人に対し、通りすがりの方々の視線が痛いのは、決して気のせいではないはずだ。
 しかもその恰好もいつもと若干違っており、月影は本人の言う通りのオールバックに髪を縛ってぶっとい黒縁の伊達メガネをかけ、服も紬の夫のものを拝借している。そして紬はといえば、細い銀縁の丸眼鏡をかけて、団子に纏めた髪にキャスケット帽、ベージュのベストにシャツを合わせ、下はボーイッシュデニムを八分丈に捲っている。ちょっと探偵っぽい恰好なのだが、これは多分、今やっている事を意識しているのだろう。これらすべて、紬プレゼンツの変装である。「普段通りの恰好だと武蔵にバレるかもしれないから、ここ見た目を変えてガチでやりましょう!」との事だ。
 その上紬は、片手にあんぱんと牛乳の入ったコンビニ袋をぶら下げており、刑事ドラマの張り込みシーンを再現しているらしい。一歩間違えば「もしかして、首突っ込んで楽しんでる?」と、言いたくもなりそうなワクワクさん具合だ。
 しかし月影も、もう随分長い間紬の上司をやっている。一見ふざけているようにも見える彼女が今何を考えているのか、なんとなく、想像がついてしまった。
(紬さん、気を使ってくれてるんだろうな)
 そう。普段はいたずらにふざけ倒すような事はしない彼女がこんな事をするのは、自分を気遣ってくれているからに他ならない。相当口にしづらい事をカミングアウトした居心地の悪さや、いくら親密な関係とはいえ張り込みをするなどという突飛な行動。それらに対して場を和ませるような行動を取って、月影の心にクッションを敷いてくれているのだろう。
「……気持ち悪いと思わないんですか?」
 すっかりなり切った様子で張り込みをする紬の後ろ頭を見下ろしながら、ぽつりと月影が切り出した。何の話だといった具合に振り返る紬。
「同性同士で、しかも相手は紬さんが大っ嫌いな武蔵君。……私の事、気持ち悪いと思わないんですか?」
「……」
 しかし、言葉の中身を聞いた所で、さして興味も無さそうにふいと視線をマンションの入り口へと戻してしまう。
「月影さん、嫌いな食べ物、何でしたっけ?」
 そして月影の質問には答えずに、逆に質問を投げかけてきた。あまりに脈絡のない話の振り方に月影は戸惑ったのだが、とりあえず頭の中で答えを探してみる。
「え、と……肝とか……モツ系、ですかね?」
「ふーん」
 返答に、聞いているのか、いないのか、といった反応を見せる紬。自ら問いかけておきながらなんともつれない態度である。
「実はあたし……あん肝が、大っっっ……好物なんです!!」
 だがその後再び月影を振り返った紬は、唐突にそんなカミングアウトをぶっ放してきた。別にそこまで力んで言うような事でもない告白を受け、当然ながら月影は、どう返事をしていいか分からずに困惑するしかない。
「もう好き過ぎて好き過ぎて、許されるなら三食毎回あん肝を食べて居たい! 三六五日あん肝でもいい!! それぐらい好きなんです!!」
「そ、そうなんですか? 紬さんがそこまであん肝好きだなんて知りませんでした」
「……月影さんは、こんなにあん肝が大好きな私の事、気持ち悪いクズヤローだと思いますか?」
「えっ!? 何でですか!? ちょっと栄養的にはどうかと思いますけど、食べ物の好みなんて自由ですよ!?」
「……そういう事です」
「??」
 疑問符を浮かべる月影に対して、優しく微笑む紬。
「月影さんが何を好きでも、例えそれがアタシの嫌いな物でも、そんなの、月影さんの自由です。月影さんが言ってる事は、アタシがあん肝大好きだって言ってる事と、なーんにも変わりませんよ」
 ま、栄養的には、どうかと思いますけどね。悪戯臭い笑顔と共に付け加え、紬はマンションの入り口へと向き直った。
「……」
 ああ、心が温かい。
「ありがとうございます……」
「えー? 何がですか? なんかよく分かんないけど、じゃあ今度あん肝奢って下さいよね~」
「はい。いくらでもご馳走します」
「やーりぃ!」
 そう言って、紬がぱちんと指を鳴らした直後だった。マンションの駐車場から、一台の車が顔を出したのは。
「あっ……月影さん! あれ、武蔵の車ですよね!?」
 慌てて月影の腕を引く目線の先には、白のSUV。見慣れた車体である。目くばせし合った二人は、すぐさま脇に寄せてあった自分たちの車に乗り込んだ。
「ふふふ! いよいよ張り込みっぽいですねぇ。燃えるぜっ!」
「あの、あくまで武蔵君に気づかれないように……」
「分かってますって! あんな奴に気づかれるヘマはしません! 月影さんはあんぱんでも食べてどっしり構えてて下さい!」
 やる気満々の紬がハンドルを握り、二人を乗せた車は武蔵の車を追いかけた。
 
 到着したのは、新幹線も発着する、周辺で一番大きな駅だった。車を降りた武蔵は、まっすぐ改札方面へと歩いていく。当然二人も後を追った。
「……何だあのデカい荷物」
 その道中、ぽつりと紬が呟いた。月影も同じ気持ちである。武蔵は、普段使いのカバンにしてはあまりに仰々しく、旅行鞄にしては使い勝手が悪そうな、謎のキャリーバッグを肩にかけていたからだ。
 新幹線の乗客が出入りする改札付近で、武蔵は歩みを止めた。上部の列車発着時刻に目をやって、腕時計を確認するそぶりを見せ、その後一旦人の流れから外れた壁際で、ちらりとカバンを眺めてからスマートフォンを弄り出す。人を待っているのだろうか。その場から動かなくなったため、ひとまず二人も、手近な柱の陰に身を隠す事にした。
「女が出てきたらアイツこの場でぶっ殺す」
「……」
 女が出てきたら、か。
 紬のその言葉に、ちくりと月影の胸が痛んだ。そしてその後条件反射のように、その痛みを腹の底に押し込めて、見て見ぬフリを決め込んだ。
 そのままの状態で、十分ほど過ぎた頃だろうか。列車の到着があったらしく、改札周辺が混雑し始めた。それと同時に武蔵が顔を上げ、きょろきょろと辺りを見渡して、そして、誰かを見つけたようだ。ふわりと表情を柔らかくして、頭を下げる様子を見せた。
 武蔵の視線の先には、ナチュラルメイクの小柄な女性の姿があった。武蔵を見つけるなり彼女も嬉しそうに笑って、それからぺこぺこと頭を下げながら駆け寄っていく。
「ッあんのやろ……!!」
「待って」
 カッとなった様子で出て行こうとした紬を、咄嗟に月影が引き止めた。どうも違う。恋人やそれに準ずる相手に会っているにしては、随分と距離感が余所余所しいのだ。さらによくよく見てみれば、その人は男性を連れており、武蔵が差し出したキャリーバッグを覗き込んで二人で顔を綻ばせているではないか。紬もすぐに違和感に気付いたらしく、佇まいを直す。
 バッグにそっと手を忍ばせ、女性が控えめに持ち上げたのは、茶トラの子猫だった。頬を高揚させて、きらきらとした眼差しで猫に釘づけになる二人と、そんな二人の表情をしみじみと眺める武蔵。
 すぐに猫をキャリーバッグに戻した二人は、その後二三言、武蔵と会話を交わしていた。しかしそれもすぐに切り上げられ、後は何度も会釈を繰り返しながら、キャリーバッグと共にとんぼ返りで改札方面へと歩き出す。
 ぽつりと残された武蔵は、二人をじっと見送った後、地面に視線を落とした。その後出口方面へ踵を返したものだから、不可抗力で、月影と紬に鉢合わせる事になる。
「……え? ……何で居んの?」
 若干涙目になっている風にも見える武蔵が、呆気にとられた様子で当然の疑問を口にした。一連の流れによって、事の顛末を何となく理解出来てしまった月影と紬は、どこから説明すればいいものかと顔を見合わせたのだった。

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