小説

それでも生きていく Ver.月影

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 事の起こりは一か月前。そう、ちょうど武蔵の様子が慌ただしくなり始めたあの頃、武蔵は死にかけの子猫を拾っていたらしい。
 動物好きで、世話好きな武蔵は、あまりよくない状態の子猫の事を、必死になって看病していたのだ。動物禁止のマンションにコッソリ持ち帰って容体が落ち着くまで付きっ切りになり、診察のために動物病院に通いつめ、仕事で家を空ける際は、知り合いやペットホテルを頼って、とにかく小さな命を救おうとしていた。そんな看病の甲斐あって、子猫は一命をとりとめ、みるみる回復し、そして今日、無事里親の元へと引き渡されたのだ。
 月影と紬に何も言わなかった理由は、「猫を拾ったからといって仕事をおろそかにしていると思われたくなかったから」だそうだ。なんともまぁ、生真面目な部分のある彼らしい言い分だった。
 それが、この一か月で起こっていた事の真相。月影が考えていたような事は、結局何一つ起こっていなかったである。
 
 武蔵は、まさか月影が、自分の態度に関して気に病んでいるなどとは思いもしていなかったらしく、謝罪する反面、嬉しい、嬉しい、としきりに口にしていた。
 一月ぶりのセックスは中々に盛り上がり、気持ちが良かった。だがその一方で、月影の心の隅には、見て見ぬフリが出来そうもないしこりが生まれていた。
 なんだ猫だったんだね。良かった良かった。めでたしめでたし。
 今回の出来事だけを見るならば、確かにその通りなのだろう。何の問題もない、ただの勘違いで、過ぎ去れば笑い話となる出来事だ。
 でも、その一方で骨身に染みたのだ。自分がどれほど武蔵に依存的になっていたか。
 武蔵が少し猫にかまけていた程度の事で、不安になって、考え込んで、心配されて、挙句紬まで巻き込んで、自分は一体何をしていたのだろう。冷静に思い返せば思い返す程、そんな心の在り方になってしまっている自分自身が、恐ろしかった。
 今回は、ただの猫だった。でも、もしいつか、自分が予感した通りの事が起こったとしたら?そして、武蔵の幸せを願うなら、自分が予感した通りの事が起こる事こそ喜ばしいのだとしたら?
 その時に自分は、一体どんな気持ちになって、どんな顔をするのだろうか。痛みを想像するだけでも、足元が竦み上がるような恐怖心が襲ってくる。
 
 ……だったらもう終わりにしよう。
 なぁなぁのまま続ける関係はもうおしまい。今は心地が良くたって、きっといつか終わりが来る。取り返しのつかない気持ちに変化してしまう前に、その一歩手前で、ほんの少しでも痛みが軽いうちに。
 もう、終わらせよう。
 
「ねぇ武蔵君」
 行為が終わり、気だるさの残る室内で名前を呼んだ。プルオーバーから顔をだした武蔵が、何だといった様子で月影に視線を投げた。
「こういうの、もう、今日で終わりにしましょうか」
「……は?」
 唐突に切り出された宣言に、声のトーンがあからさまに下がったのを感じる。意味が分からないといった、不機嫌さを隠そうともしない表情は、想定の範囲内だ。怯まずに真正面からそれを受け止めて、続ける。
「私ね、もうこの年で、惚れただの腫れただのに心を乱されたくないんです」
「……」
「今回は猫でした。でもきっと、いつか君は普通に女性をお嫁さんに貰って、普通に幸せになるんです。だから……いつか終わる事が分かり切っている事は、もうここで、お仕舞にしましょう」
 空気がぴんと張り詰めたのが分かる。分かっている、分かっているんだ。自分は今、言ってはいけない事を言っている。自分勝手で、傲慢で、臆病で、卑怯で。自分可愛さゆえに、武蔵の気持ちの一切を踏みにじっている。
「……アンタの気持ちはどうなんだよ」
 低く、唸るような声色が床を這う。それに応じずに黙りこくっていると、ひゅっと、鋭く息を吸い込む音が響いた。
「俺はアンタの気持ちをいっこも聞いてない! いつも俺ばっかりだ! いつか普通に女を嫁に貰う? 普通に幸せになる!? 普通って何だよ! ンなもんをテメェなんぞのちっせぇ物差しで勝手に決めてんじゃねぇ!! 俺の人生なんだよ!! 何をいつどうするかなんて俺が決めるし、何が普通で何が幸せかも俺が決める!! 普通だの俺のためだのワケの分かんねぇ隠れ蓑に逃げて、結局自分の言葉で何一つ語らずに逃げ回ってんのは、他でもねぇ、アンタ自身だろうがッ!! テメェの弱さを! いつまで経っても! 俺に押し付けてんじゃねぇぞッ!!!」
 武蔵の言葉の全てが痛かった。言われたくない事を、突かれたくない図星を、包み隠さずぶつけられた。その衝撃に耐えきれず、ついにぼろぼろになった鎧が剥がれ落ちて、弱い、柔い部分が剥き出しになる感覚がした。そしてその内側では、もうこの先一生直視したくなかった、耐えがたい悲しさと心細さが、膝を抱えて蹲っていた。
 無かった事にしないで、捨てていかないで。こんなに傷ついていたんだ。悲しかったんだ。苦しかったんだ。本当は、もっともっと沢山誰かに愛されたかったんだ。
 こんな弱い僕も、あなたの一部なのに。無かった事にしないで。捨てて行かないで。
「……本気になんて、なりたくなかったんですよ……」
 気付けば、そんな言葉が零れていた。それを皮切りに、激情が溢れて止まらなくなる。ずっと、ずうっと、冷やし固めて動かないようにしていたはずの自分の心が、どろどろ、どろどろ、溶けだしてしまっているようだ。
「本気になんて、なりたくなかった。なるつもりもなかった! 心が動けば動くだけ苦しいんです! 止まっていた方が楽なんです!! 華菜さんが居なくなった時、もう絶対、誰にも、自分の中に踏み込ませないって! こんなに辛い思いをするぐらいなら、もう何もいらないって! そう決めたのにっ!!」
 武蔵の表情が、みるみる驚きに彩られていくのが分かった。でも、もう止まらない。ああ、鼻の奥がつんと痛い。涙腺が壊れてしまったかのように涙が溢れてくる。不格好に昂った呼吸が苦しい。頭の中がぐちゃぐちゃで、言っていい事も、悪い事も、区別がつかない。打算がきかない。
「それを勝手に、土足で踏み込んで荒らしていこうとしないで下さい! 心を動かそうとしないで下さい! そんなの要らないんです!! 迷惑なんです!! 邪魔なんですっ!! これからもそんな事をするんだったら! もう金輪際! 私に関わらないで下さいッッ!!」
 ぶちまけるような勢いでそう言った後、はっとした。
 今、自分は、何を言ってしまったのだろうかと。うそ寒くなった。怖くなった。このような関係は元より、上司と部下としてすらも、もう隣には居られない。そんな事を口走ってしまった。そう思った。
 だが武蔵はといえば……しばし呆気にとられた表情で固まった後……嬉しそうに口元を緩めたのだった。
「……月影さんが怒鳴ったの……初めて見た……!」
 そして、感極まったかのようにそう言った。今度は、月影が呆ける番である。
「すっげー嬉しい。泣きながら怒鳴ってんのも、その後に、マズい事言っちまったって顔してんのも、全部嬉しい。人間っぽい月影さん見られて、すっげぇ嬉しい」
 武蔵の手が伸びて来て、涙を拭って頬を包んだ。
「……今……私……突き放しました、よ……?」
 まるで自分が言ったことなど、無かった事になっているような言い分と行動に、混乱して問いかける。すると武蔵は、いつものようなあくどい笑みを浮かべたのだった。
「え? うん。突き放されたけど……それが何? 俺がアンタの部下にしてもらう時、何回突き放されたと思ってんの? 今更一回突き放されたくらい、痛くも痒くもねぇんだけど」
「……」
「それに今……突き放された感じ、しなかった。好きで好きで堪んねぇから、頼むから離れてくれるな、居なくなってくれるな、ずっと傍に居ろって、そう言われてるようにしか、感じなかった」
 手のひらが滑り、くしゃりと髪を撫ぜる。
「なぁ月影さん。大丈夫だから。無くなったりしねぇから。欲しいモンを欲しいって、正直に言ってもいいから。……俺の傍に、居てくんねぇかな?」
 その言葉を皮切りに、涙がぼろぼろと大粒になっていく。ついには手繰り寄せた布団に顔を埋め、月影は、声を上げて泣き始めた。それは恐らく、華菜が亡くなったその瞬間から……いやきっと、それよりずっと前から、小さな頃から、吐き出せなかった物なのだろう。
「武蔵君と、いっしょに、いたい……」
 手に入らないなら、失うくらいなら、もう最初から、欲しくない事にしてしまえばいい。
 そうやって、諦め続けていた。
「いなくならないで、捨てないで、ずっと一緒に居て欲しい! 一人はもう嫌だ!! 誰にも選んでもらえないのはもう嫌だ!! 寂しいのは嫌だ!! 嫌だ!!! 嫌だ!!! 嫌だッ!!! ――――ッッ!!!!!」
 最後はもはや、言葉にもならない激情が、部屋中に響き渡った。
 武蔵は、大きく上下する月影の背に手のひらを置き、何を言うわけでもなく、ただじっと、その声を聞いていた。
「……うん。ずっと一緒に居ような」
 そして、心の内側が全てぶちまけられ、荒い呼吸音が響く室内で、ぽつりと一言。
「もう大丈夫だから」
 
 
 
 その夜、夢を見た。
 真っ白な世界に、自分が立っている。そして背後には、温かい気配がある。
(あ)
 ゆっくりと振り返ると、そこには、華菜が立っていた。
(この夢……久しぶりだな)
 夢を見ている、と、認識できる程の回数見た夢だった。とはいえここ数年は、めっきりと見なくなっていた夢でもあった。
 悪戯っぽく笑った華菜が、月影に歩み寄ってくる。
「あんた老けたねぇ」
 開口一番のお言葉が、それ。思わず苦笑が零れた。
「お嫌いですか?」
「いーや、これはこれで悪くない」
「華菜さんは変わりませんね」
「死んじまったモンは、どうやったって老けられないからな」
 月影の目の前で立ち止まり、もう一度、笑みを向ける華菜。本人の言う通り、あの頃のままの笑顔だ。若くて、きれいなままの笑顔。月影と同じ時間軸を歩む事の出来なかった姿。それがもの悲しいような気もするが、かつて感じていたはずのあの痛みは、いつの間にか薄れていた。
「ずっと心配だったんだ。いつか何かの拍子で、まかり間違って、アンタがこっちに来ちまうんじゃないかって」
 アンタ、バカみたいに陰気で思い詰めるタチだからさ。歯に衣着せぬ言い草に、今度はぷっと吹き出してしまう。
「そしたらまぁ……アタシの心配をよそに、ちゃっかりいい男捉まえやがって」
 華菜が、にたりと歯を見せて、目を細める。
「あの子は沢山の人に愛されて育った子だね。人に愛情を分けてあげられる子だ。だから沢山貰いな。沢山甘えていいんだよ」
「……はい」
「……本当はさ、アタシがその役目、やりたかったんだ。だからちょっと悔しいけどね。でも……あとは、武蔵君に任せるよ」
 そこで、華菜は一度、寂し気に瞑目した。そして次に目を開けた時、彼女の表情は今しがたまでの明るい笑顔とは少し違う、どこか神妙にも見える面持ちに変わっていた。
「月。生きててくれて、ありがとう」
 静かに、しかしよく通る声で、礼の言葉が紡がれる。
 それを皮切りに、彼女の口から、次々と零れ落ち始めた。
「勝手に居なくなっちまってごめんな」
「影縫を育ててくれてありがとう」
「あんたが頑張ってたの、アタシ、全部知ってるんだ」
「本当に、本当に、一生懸命生きてくれた。一生懸命育ててくれた」
「ありがとう……」
 優しい言葉のはずだった。しかしその言葉の一つ一つが、月影の中に居座る罪悪感をずきんずきんと疼かせた。
 児童養護施設で育った自分は、普通の家庭の親がどういうものか分からなかった。どうやって愛情を注ぐのが正解なのか分からなかった。華菜が生きているうちはお手本にするものもあったのだが、彼女が亡くなって以降、そのガイドラインも無くなった。
 その上、自分の心を守るために仕事と男に没頭した。近所の人間や育児ヘルパーに影縫の事を任せ、仕事をしていたのならまだいい方。その実男と寝ていた事だって、少なからずある。
 唯一金銭的に不自由をさせる事だけは無かったが、果たしてそれだけで父親だったと言えるのか。自分の未熟さや、弱さを、すべて影縫に押し付けてしまっていたのではないだろうか。
 そんな言葉をかけて貰えるような立派な父親で無かった事だけは、確かなのだ。
「そんなの……」
 月影が、弱弱しく口を開く。
「そんなの、言って貰う資格無いです……。私……ッ……あの子の事、ちゃんと見てあげられた自信が無いんです! どうやって愛情を注げばいいのか、分からなくて……! 自分が生きる事に、精一杯で……父親らしい事なんて、何をしてあげられたのか……! あの子にも、華菜さんにも、顔向け出来ないのに……そんなのっ、言って貰う資格なんて……!!」
「月ッ!!」
 ぺちん。鋭い声の割に優しい力で、月影の両頬が手のひらに包まれた。はっとして顔を上げれば、視界に飛び込んできたのは、悲しそうに歪んだ華菜の顔。
「お願いだから……そんなに自分を責めるなよ……」
 咎めるように、でも縋り付くように、震える言葉が絞り出された。
「うまく愛情を注げなかったかもしれない。父親らしい事をしてあげられなかったかもしれない。それが何だ。それでも影縫はちゃんと大きくなって元気に生きてる。アンタもこうやって誰かに支えられながら生きてる。それでいいんだよ! それが、人が生きるって事なんだ! なにもかもお綺麗にこなせる人間なんて居やしない! 親になったから完璧になれる訳じゃない! 人に迷惑をかけて、人に迷惑をかけられて、だからこそ感謝しながら生きていく! それが人間の生き方だ!」
 つん、と、月影の鼻の奥が痛んだ。
「アンタはちゃんと父親だったよ。立派に父親だったんだ……」
「ッ……!!」
 その言葉を皮切りに、月影はその場に崩れ落ちて泣き出した。眠る前にあんなに泣いたのに。もう涙は出ないと思うくらい泣いたのに。それでも溢れる感情が止められなかった。
 
 必死に生き続けた。自分なりの精一杯をやり続けた。それは他人から見れば褒められるようなものでは無かったかもしれないけれど、それでもがむしゃらにやり続けた結果だった。
 それなのに、自分の心を誰より自分が無視していた。認めてよ。褒めてよ。こんなに頑張っているのに。こんなに一生懸命生きているのに。何でこっちを見てくれないんだ! 何でそんなにいじめるんだ! そうやって悲鳴を上げる小さな自分に何度も何度もナイフを突き立てて、黙らせて、そしてまた、上手くできない自分を責め続けた。
 
 本当は、よく頑張ったねって、褒めてもらいたかった。
 ただ、それだけだったのに。
 
「私、今日、一生分泣いたかもしれません……」
 ようやく涙が落ち着いた頃、冗談ぶって発せられた月影の言葉に、華菜は歯を見せて笑った。そして、瞼を腫れぼったくした月影の、涙の痕が残る頬に改めて手を滑らせ、マジマジと眺めてから一言。
「ぶっさいくな顔」
 手ひどいお言葉に、言われた月影は声を出して笑ってしまった。そんな反応にまた嬉しそうにした華菜が、すりすりと頬を撫で擦る。
「でも……この顔の方が、愛おしいよ。普段の澄ましたアンタより、ずっとイイ男だ」
 しばし掌は、言葉通り愛おしそうに月影の顔を撫でていた。華菜の手のひらは、死んでいる人間のそれと思えない程温かかったが、人間としての体温とはまた違う温もりでもあった。まるで、境目を無くして臓腑まで優しさが染み入るような、もっと大きな温かさ。
「月」
 やがて、名前を呼ぶ声と共に、名残惜しそうに温度が離れていく。
「……愛される事は幸せだけどね、もうそろそろ、アタシの事は忘れて、幸せになっていいんだよ」
 数歩後ろに下がった華菜が、ほんの少し寂しそうな表情でそう言った。
(嫌だ)
 言葉が出るより早く、腹の底から素直な思いが湧いてきた。
 死んだ人間がその後どうなるかなんて、月影は当然ながら知らない。
 ただ、華菜はきっと、魂と呼ばれるような存在になっても尚、自分の愛情をずっと感じてくれていたのだろう。それが執着に似たものだったとしても、それも含めて大きな器で、優しく受け取っていてくれたのだろう。
 だったら、これからもその優しさに甘え続ける事くらい、許して貰えるのではないだろうか。
「それでも私はこれからも、華菜さんの事を愛していると思います」
 きっぱりと言い切った月影の言葉に、華菜は一瞬目を丸くした。だがその後すぐに瞳を細め、堪らずにクスクスと笑い出す。それはとても嬉しそうな表情だった。
「アンタは……こんな所でまで、アタシの事を口説くのかい」
「そんなつもりはありません。ただ、事実なので」
「ふふっ。……じゃあもうそれでいいから。これからは、武蔵君の事、もうちょっとちゃんと見てやりなよ? 愛情に甘えてぼさっとしてたら、それこそ誰かに掠め取られちまうよ?」
「……分かりました」
 よろしい。とでも言うかのように、華菜がゆったりと首を頷かせる。そして、後ろ歩きでさらに歩を進めていく。彼女が踏みしめた真っ白な地面から、緑が芽吹き、花が咲き、蝶が羽ばたいて、それは瞬く間に空間全体に広がっていった。
 ああ、夢の終わりだ。と、神々しい光景を眺めながらぼんやりと考える。だけど、それに追いすがろうとは、もう思わなかった。
「月」
 二人の距離が数メートルは離れただろうか。緑に満ちた美しい空間で、光の柱に照らされながら、華菜が最後にもう一度、月影を呼んだ。その顔貌に満面の笑みを称えて。
「沢山泣いて、沢山怒って、そんで、沢山笑いなよ。こっちに来る時に、顔中しわくちゃになってるくらい、沢山な」
 それはまるで、ひときわ大きな花が咲いているようだった。
「そんなアンタに会えるの、楽しみにしてるから」

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