小説

もっと触って、大好きだから。

letm_official

告白

 水を入れる音。コンロの上にやかんが置かれる音。着火する音。カップが二つ取り出される音。まだ暖房が効き切っていない静かな部屋で、温かい飲み物を準備する音の一つ一つが、何だか郷愁を覚えて心地いい。
 手持無沙汰に座る妃の足元に、どこからともなくグレーの猫が現れた。何度か会った事がある空の愛猫だ。普段はどこかに隠れていたり、顔を見せても遠くからじっと視線を注いでくるだけであまりお愛想してくれない彼女だが、今日は珍しく妃を見上げて体を擦ってきてくれた。さらさらの毛並みがくすぐったくて気持ちいい。都合のいい解釈だが、飼い主の手が空くまで代わりに慰めてくれているような気がして、可愛らしい仕草に思わず頬が緩んだ。
 空が飲み物を運んできたタイミングで、空気を読んだように猫は妃から離れ、自らのベッドへと向かっていった。
「はい、どうぞ」
 差し出されたのはジャスミンの工芸茶。耐熱ガラスのカップの中で、花茶がふわりと開いている。
 可愛い、と呟くと、空が嬉しそうに笑った。
「可愛いよね。今度妃ちゃんがうちに来たら淹れたいなって思って買ったんだ」
 その一言で、花茶を見つけた時の空自身のときめきや、きらきらした瞳、自分との時間を大切にしたいと思ってくれている気持ち……諸々全てに意識が及んで、妃は幸せな気持ちになった。素直な人たらし。彼には全く気質の違う兄が居るのだが、こういう部分だけはよく似ているなと、ふとそんな事を考えた。
 口に含むと甘い香りが鼻腔に広がり、ゆっくり体内を流れ落ちる温かさに、ほっと体がほぐれていった。空も妃の向かいに腰を下ろし、お揃いのお茶を一口飲んで、小さく息を吐く。そうやってしばし穏やかな沈黙と、カップの温もりを楽しんだ後、空が話を切り出した。
「妃ちゃん。まず、ごめん。さっきの明歌音との事は、俺がもっとハッキリ止めてって言うべきだった」
 正面から頭を下げる空に対し、妃はとんでもないと首を振る。
「違うの。私、明歌音ちゃんの事ちゃんと分かってる。二人が男友達みたいな感覚で接してるって、分かってるの。だから……さっきはどうかしてた。明歌音ちゃんにまで嫉妬するなんて、らしくなかったと思ってる」
 妃の言葉を受け、今度は空が首を振って返した。
「いくら明歌音が男に興味ないって言っても、明歌音自身が女の子である事に変わりはないよ。例えばもし逆の状況で、妃ちゃんが男の子とべたべたしてたら、俺だって絶対嫌だもん。やっぱりそこはちゃんと線引きすべきだと思った。……明歌音もね、さすがに責任感じたみたいで、もう少し妃ちゃんの気持ちも考えるって。ごめんねって言ってたよ」
 明歌音はただふざけているだけにも見えるのだが、その実人一倍明るく振舞って、場を盛り上げたり和ませようとする性格なのだ。今回はそれが裏目に出てしまっただけで、勿論空に何かしてやろうだとか、妃に見せつけてやろうだなんて気持ちがあるはずもない。
 ただそれを理解した上で、空が妃の気持ちを慮ってくれて、対応を考えてくれた事は素直に嬉しかった。妃も今後は二人の配慮に甘えさせて貰うという事で、この話は一段落する。
「あと……これが一番重要!! 俺、妃ちゃんに魅力がないとか、触りたくないとか、全っ然! 思ってないよ! っていうかそんな男いないよ!? 妃ちゃんみたいな可愛い子に魅力ないとか思う男この世に存在しないから!! むしろ俺でいいんですかお付き合い出来て幸せですありがとうございますとしか思ってないよ!?」
 冷静な口調だった明歌音の件とは打って変わって、突然の熱弁を始めた空に気圧されそうになる妃。それは個人の好みにもよるだろうという内容ではあったのだが、空にとってはそれほど魅力的に映っているという主張でもあるのだろう。
「だから、キスしたいとか、普通に思うし……もちろん……その……」
 左右に視線を動かし、しばし言葉につまった空が、両手で顔を覆い隠した。
「えっちな気持ちになる事も、あり、ます……」
 語尾が消え入りそうな告白。表情こそ見えないものの、耳たぶが分かりやすく赤く染まっていった。そう思っていて欲しかったはずなのに、いざ面と向かって言われると嬉しいやら気恥ずかしいやらで、妃の頬にも熱が集まるのを感じた。
「じゃ、じゃあ、何で……? 一般的に男の子って、むしろ付き合ったら率先してしたがるイメージで……でも空君は、逆にそういう雰囲気避けてた、よね?」
 照れ隠しに、意味もなく髪を触りながら問いかける。
「……うん。そうなんだけど……。まずね、妃ちゃんを大事にしたいなって気持ちがあるのは事実なんだ。あんまり、その……えっちな事するためだけに、お付き合いしてると思われたらヤだなって、その気持ちがあったのが一つ」
 何か他の理由がありそうな、含みのある言い方だった。
「ただ、それだけじゃなくて……」
 そこからさらに話を続けようとした空が、しかし言葉を探して口ごもり、しばし逡巡する様子を見せた。沈黙を埋めるために妃は何かを言いそうになってしまったのだが、空が大切な事を話そうとしてくれている気がして、無駄な言葉をぐっと飲み込んだ。
「……あの、ね。今から話す事……同情して欲しいとか、妃ちゃんに何かして欲しいとかじゃなくて……ただの事実として聞いてほしいんだ」
「……うん」
「俺自身の問題だから、言うつもりなんてなかったけど……妃ちゃんに悲しい思いさせちゃった以上、やっぱり話しておかないとダメだなって思った」
「……うん。分かったよ」
 仰々しい前置きに、一体どんな話をされるのだろうと少しだけ不安になった。だけど他でもない空が、妃の面倒な部分を受け入れてくれたのだ。今度はこちらが、空の話を受け止める番だと腹を括った。
 ふう、と息を吐いた空が、意を決した様子で顔を上げた。
「俺、ずっと昔……父親、から……」
 発せられた声は、隠そうとしても隠しきれない程、弱弱しく震えていた。その声に妃も、そして空自身も驚いたらしく、そこで一度言葉が途切れた。仕切りなおすように口内を湿し、再度顔を上げる空。その瞳には、今にも泣きだしそうなくらいに涙の膜が張っていた。
「……虐待、されてたんだ……性的な、ヤツも、含めて……」
 視界の端に映る拳に、ぎりりと力が込められたのが分かった。
「記憶として思い出すとかは、もうほとんど無いんだけど……でも、セックスとか、そういうのに、漠然とした怖さとか不安がどうしても残ってて……。ほんとはしたいんだ。妃ちゃんに触りたいし、恋人同士でする事、したいと思ってる。ただ……そういう空気になった途端、嫌な気持ちが出てきて取り乱しちゃったらどうしようとか、上手く出来なかったらどうしようとか、かっこ悪いと思われたくないとか、嫌われたくないとか……そんな事ばっかり考えちゃって……。妃ちゃんが気にしてるの、薄々勘づいてたくせに……自分の保身のために、ずっと逃げてた……」
 そこまで一気に話し切り、瞼を下した空が、自身を落ち着かせるように深呼吸を一つ。彼の頭が徐々に下がっていき、もはや妃に対しての物なのかすら分からない「ごめんなさい」が、弱弱しく部屋に響いた。その姿はいつもの空とどこか違って、行き場のない小さな子供のようだった。
 しばし、耳が痛いくらいの静けさが部屋を支配した。それはお互いの鼓動すら聞こえてしまいそうな沈黙だった。
「……空君」
 鬱血するほど握り込まれている空の拳に、そっと妃の手のひらが重ねられる。その柔らかさに気付けされるように、はっと、空の瞼が開いた。
「……きっとすごく怖くて、もう口にも出したくなかった事……私のために話してくれて、ありがとう」
 妃は眉尻を下げて、目尻を赤くして、今にも泣き出しそうな顔をしていた。その表情を見た瞬間に、空の目のふちから、一筋涙が零れ落ちた。
「あ……ぁ……ごめん、気を使わせたかったわけじゃ、なくて……。もっと普通に、言えるはずだったんだけど……」
 慌てて雫を払う空。しかしそれをあざ笑うように、ぽろり、ぽろりと、次々に涙が溢れてくる。
「……ちょ、っと……ちょっとこれ……ごめん、ごめん妃ちゃん。俺、泣くつもりなんて、なくて……!!」
「いいよ。空君の心が泣きたいんだもん。泣かせてあげてよ」
 どうにか涙を止めようと目元を擦る空の両手を、妃が優しく制する。
「私も一緒に泣く。だから恥ずかしくないよ。それでいいんだよ」
 瞳を揺らした空が今度こそ崩れ落ちた。彼の頭を抱きしめると、心がぎしぎしと音を鳴らして痛みが流れ込んでくる。空がどれだけ苦しかったかなんて妃には想像もできない。だけど今この瞬間に感じているモノだけでも、自分が少しでも請け負えますようにと願った。
 
 
 空が迎えに来てくれた時に十分泣いたと思ったのに、空と一緒に妃もまた大泣きして、涙が枯れた二人は身を寄せ合って、一つのブランケットに包まっていた。体の片方に互いの体温がじんわりとしみ込んでいる。沢山涙を流した後の気怠さ。そして誤解が解けた安心感で、時間がいつもよりもゆっくり流れているようだった。
「妃ちゃん、ありがとう」
 温もりに浸りながら、空が独り言のようにぽつりと零す。妃が首を傾けて彼を見上げた。
「兄貴以外でこの事知ってるの、実は妃ちゃんが初めてなんだ」
「……え? そうなの!?」
 驚いた様子を見せる妃に対して、居心地の悪そうな照れ笑いを浮かべて頷く空。
「絶対誰にも言いたくなかったし、死ぬまで誰にも知られないつもりだった。特に大好きな妃ちゃんになんて、ほんとは一番知られたくなかった」
「……」
「汚い、気持ち悪い、親に愛してもらえない、欠陥品。そんな人間だってバレるのが、怖かったのかもしれない」
「そっ、そんな事ないよ!! そんなの思うわけないじゃない!!」
 頭の片隅にもなかった単語達が空の口から飛び出して、妃は思わず語気を荒げてしまった。そんな彼女に空は一瞬目を丸くして、しかしその後嬉しそうに表情を緩めた。
「うん、だからね、妃ちゃんが俺と同じくらい泣いてくれてさ。初めて兄貴以外の他人に、自分の一番捨てちゃいたい部分を受け入れてもらえた感じがして……すごく心が楽になった。ビックリするくらい楽になったんだ」
 こんな事なら、もっと早く言っておけばよかった。冗談めかしてそう言って、さらに空が言葉を続ける。
「人のために泣ける妃ちゃんの優しさって、やっぱり凄いなって思った」
 そんな事はない。自分はただ感受性が強すぎるが故に、人の感情に反応して勝手に泣いてしまうだけなのだ。だけどそれを「優しい」と空が捉えてくれるのなら、今はわざわざ跳ねのけないでおこう。憑き物が落ちたようにすっきりとした笑顔を見せる空を前に、妃もむず痒そうに笑った。
 しかしそこからややあって、空がそわそわと何か言いたげな様子になる。
「で、さ……妃ちゃんはこの先も、俺と居ていいの……?」
「へっ?」
 今の流れで何故別れる方面への選択肢が生まれているのか。突拍子もない質問を受けて、妃の頭が疑問符で埋め尽くされる。
「やってみなきゃ分からないとはいえ……もしかしたら、エッチ、とかに、消極的なお付き合いなっちゃうかもしれないけど……それでもいいのかなって……」
 まるで男女の立場が逆になったような質問を、バカみたいに真面目な様子で投げかけられて、そういう事かと理解が及んだ。思わずぷっと笑いが漏れてしまう。
「ちょっと止めてよ~。空君って私の事そんなにエッチな子だと思ってるの?」
「いっ、いや違うよ!? 違うけど、やっぱり男としてはリード出来ないのがよろしくないっていうか、そういう意味でも妃ちゃんを満足させてあげたいっていうか、もっと滞りなく進めたかったっていうか……!!」
「あははっ、冗談だってば。ちゃんと分かってます」
 からかう妃に、空が必死に弁明を返す。空と妃は同い年だが、昔は体が小さくて何かと控えめな空を、妃がお姉さんのように引っ張る場面が多かった。今ではすっかり背の高さも逆転して、空は男としても頼もしくなってしまったが、それでも時たまこうやって、子供の頃の関係性が顔を覗かせる事がある。そしてそれは二人にとって心地よいものだった。
「私はそういう行為そのものがどうっていうよりも、求めてくれない理由が分からなくて不安だっただけ。それに空君って昔から消極的な所あったじゃない? ガツガツした人が好みならそもそも空君には行かないよ」
「う……それは……否定はできないけど、なんかフクザツ……」
 男としては、良いのか悪いのか微妙な意見を送られて項垂れる空。そんな彼の様子に、妃がくすくすと笑いを零す。
「でもそうだな……」
 それから改めて、妃が空の手を握り、甘えるように顔を見上げた。
「やっぱり私は空君の事が好きだから、恋人同士でする特別な事も、していけたらいいなと思ってる」
「う、うん。それは、もちろん俺もだよ!」
「だからね」
 さらに体を密着させると、空の目が分かりやすく泳いだ。だけどこれまでのように意味も分からないまま避けられる事はなくて、ただ照れているだけのようなリアクションが、妃にとっては嬉しかった。
「ちょっとずつ練習していこうよ。嫌な気分になったらそこで止めればいいし、上手く出来なくたっていい。空君が勇気出して話してくれたおかげで、今後は対策も出来るじゃない?」
「……いい、の……? そんな事にまで、付き合ってもらっちゃって……」
「水臭い事言わないでよ。彼女なんだから当然でしょ」
 それとも他の誰かで練習するつもり? 少し意地悪な表情で問いかけると、空は滅相もないとばかりに首を振りたくった。その仕草がまるで子供の頃に戻ったようで、妃の口元がまた綻ぶ。
「じゃあ、まずは……」
 そんな穏やかで優しい空気のまま、妃が一層距離を縮める。目の前には、少し不安そうな、でもどこか期待を孕んでいるようにも見える、真っ赤になった空の顔がある。
「キスから、ね?」
 少しだけ顔を傾けて唇を差し出す。目の前で小さく息を飲んだ音がする。律儀にも喉奥で「うん」と呟いた空が、最後の隙間を自ら埋めた。
 柔らかくて湿った感覚が、そっと触れ合う。くすぐったさのような物が背筋を駆ける。無意識に閉じていた瞼を持ち上げると、睫毛が触れる位置にまだお互いの顔がある。
 嫌じゃない? 妃が吐息交じりに問いかけると、空が小さく頷いた。それから妃の方に少しだけ体を傾けて、もう一度キスを落とす。今度は唇の隙間から互いの息遣いを感じて、チリリと、胸の奥で何かが燻ったような気がした。
 触れては離し、触れては離し、少しずつ角度を変えながら、啄むだけの幼いキスを交わす。だけどそれだけでも二人の鼓動は高鳴っていて、自然と組み合わさった指の間から、ドキドキと脈拍が伝わってきた。
「どうしよう、妃ちゃん……」
 はあっ。空が興奮を逃がすように息を吐いた。
「ぜんぜん、嫌じゃない……もっとしたくなってる……」
 困惑の中に、確かな熱を孕んだ声色が妃に縋り付く。先ほどまでの不安げな様子は鳴りを潜め、間近に映る瞳の奥に、隠しきれない情欲が息衝いているのが見て取れた。それが妃の胸の袂を震わせた。この関係になって初めてだった。こんなにも、本当の意味で男っぽい視線を向けられたのは。
「……もっと、してくれるの……?」
 初めて見る表情は、子供の頃からずっと抱いてきた空へのイメージと異なって、妙に色気があって綺麗だった。ほんの少し溢れただけでもそう思うのだから、このまま進んでしまったら何が起きるのだろうと、一抹の不安のような、期待のようなものを覚えた。
 そんな妃の内心など知る由もなく、胴体に腕が回ってくる。いつもの壊れ物を扱うような抱きしめ方とは全然違う、掻き抱くような力の籠め方だった。
「……うん。したい」
 耳たぶを吐息が滑る。びくりと妃の肩が震える。頭を持ち上げた空が再度妃と顔をつき合わせ、視線を絡めて唇を寄せる。今度はさっきよりも少しだけ性急に、呼吸を飲み込むように口づけられた。
 これまでの控えめなハグじゃない、より密着した状態で感じる空の体は、思っていたよりずっと男っぽかった。筋肉の凹凸を感じる腕に閉じ込められながらキスを受け止めていると、思考回路にモヤがかかり、目元がとろけていくのが分かった。
(あ……どうしよう、なんか、キスしてるだけで……)
 ひっそりと妃の太ももがこすれ合う。
(お腹の奥……へんな感じしてきちゃう……)
 官能を覚えて熱っぽく息を吐いた瞬間に、互いの舌がつんと触れ合った。瞬間、脊椎から電流が下っていく。それを合図に口内にまで舌が侵入してきて、たどたどしく始まるディープキス。歯列を確かめられるたび、舌同士が絡み合うたびに、じわ、じわ、と下腹に疼きが降り積もっていく。そんなつもりは無かったはずなのに、勝手にお尻がもじもじと動いてしまう。空にバレていたらどうしようと、妃の頭の隅っこで理性が呟いた。
 二人の唇の隙間から悩ましい呼吸音が漏れている。最初はままごとみたいなキスだったのに、いつの間にか互いの口内を味わってぴちゃぴちゃと水音まで鳴らしていて、場の空気はしっとりと重たくなっていた。もう気持ちが高ぶって堪らなくなってしまって、妃は空の項に手を回して縋り付いた。すると背中の空の手にも一際力が込められて、柔らかい肌に指先が食い込んでくる。その動きに劣情を垣間見て、また体温が上がってしまう。ぴったりと隙間なく触れ合う身体。すぐそこで感じる心臓の鼓動。間に唯一挟まった洋服が、今は邪魔くさく感じた。
「はっ、ぁ……」
 絡まっていた舌が離れていき、名残を惜しむような吐息が妃の喉を鳴らす。つうと唾液の糸が引き、タイムラグの後途切れた。
「……っ妃ちゃん、なんて顔してるの……?」
 空が息を詰め、欲に飲まれそうな声で何とかそれだけ発音した。妃には、自分が今どんな顔をしているのかよく分からない。ただ頭がくらくらして、頬ばかりか体全体が火照っていて、泣きそうなくらい気持ちが高揚しているのだ。というよりも妃からしてみれば、そのセリフをそっくりそのまま返したかった。空はもっと丸くて可愛げのある目をしていたはずなのに。欲望の炎が揺らめく瞳でこちらを射抜くような、そんな油断ならない表情は見たことがなかった。
 妃の細い首筋に、空の唇がそっとすべる。
「ねぇ、おれ」
「ぁっ……」
「もっともっと、妃ちゃんに、触りたい……」
「あ、ぁんっ……」
「っ~~~……ちょっと待って、その声可愛すぎるから……っ」
 初めて与えられる愛撫に、耐え切れず零れる甘い声。鼓膜を擽られた空が、どうにか自身を落ち着かせようと妃を掻き抱いて呼吸を逃がした。理性と本能のはざまで揺れ動きながら、なんとかいつも通りの自分自身を取り繕おうとしている。そんな様子だった。
「空君は……大丈夫、なの……?」
 最後の最後にかき集めた良心が、妃に配慮の言葉を紡がせる。妃だって本当は、ここから後戻りなんてしたくない。けれどそれ以上に、空の心と、この先も二人で続けていける関係を、何より大事にしたかったのだ。
「聞かないで、俺、今」
 だけど首筋をなぶる吐息は熱くて、耳を擽る声は艶っぽくて
「昔の事どうでもよくなるくらい、妃ちゃんでいっぱいなんだ……」
 そんな殺し文句どこで覚えたの、なんて、思う間もなく理性を放り投げた。

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